武道初心集・二頁目
 

失敗した。仮に読んで下さる気を起こして下さった方がいらしたとしても、「項目へひと飛び」なんて、数字の羅列を見て、「この項目が見たい」なんて思う方はいらっしゃらないだろうな・・。
松代ヴァージョンなら、「孝行」とか「教育」とか「禮敬」とかというテーマ分けしてあるから、そっちを採用すべきだったか・・・?
いやいや、それでは当初のコンセプトが無になる・・・・。
いいや。此の儘書いてしまおう。

時に、此のコンテンツに無断リンクして下さってる(爆)サイト様発見。有難う存知ます。
http://izumo.cool.ne.jp/reviveman/
ブラウザに表示したら、ずずいっと下がって行きますと「武道初心集」という項目が有りますので、其処にリンクされてます。

 
 
 
十一
昔から、「出家侍」と言い習わしているのはどんな仔細があっての事であろうかと考えてみれば、なんとも互いに似た点があった。

例えば禅家に於いて、なんとか蔵主、なんとか座主等という肩書きを付けている者は、これ皆平僧であって、武家に当て嵌めて見れば外様組(家中で、主君の側近くに勤務しない者。)配下の平士と同格である。

次に一段階上がって、単寮西堂などというのは、武家に於ける目付使役侍の組頭、或いは徒行頭等の諸役職に等しいものである。

扨又同じ出家乍らも、色衣の法服を見に纏い、手に払子、しっぺいを持って、大勢の大衆に説教するのを長老・和尚という。
これは武家に於いては、自分指物をさし、或いは羽織・采配等を許されて士卒に命令を下して作戦を行う役人、つまり士大将・足輕大将、扨は弓矢の六奉行などいう武士に等しい様子である。

上記の点を踏まえて考えてみれば、釈門の家風も武門の作法と似た点があるので、「出家侍」と言うのであろうと思われる。

但し、知識に関していえば、釈門の同階級の人間に較べると武家の知識は遥かに劣っている様に思われる。

何故かというと、釈門の作法というのは、未だ平僧である裡に師匠の許を離れて諸寺諸山を遍歴して、数多の学匠・明師に出会って参禅参得の功を積み、何時なんどき単寮西堂、又は長老・和尚に出世して本寺本山の住職を務める身となっても少しも恥ずかしくない様に学問を究めて、何時出世しても良い様に準備万端調えているのである。
これは尤も至極なる修行の仕方であると言えよう。

武家に於いてもこうありたいものであるが、武家の同階級なんていうのは、無役の平士で外様奉公をしている様な身分の者であっても、親の跡式或いは隠居跡の家督を譲り受け、分相応の禄もあるので衣食住の三つに何の不足も無い。
未だ年若い者も妻子を持ち、朝寝(寝坊)昼寝を業とし、士の常法たる兵法をさえ学び勤める事をしないというのだから、況してや日常的でない軍法戦法などに至っては思いも懸けず、一日ぬらりに年月を送る裡、そろそろ髭に白いものが混じってきて、額も禿げ上がって、どうにか尤もらしい年齢に見えるのをいい事に役変わりさせてもらって、例えば使い番などという軽い役になっても、なって早々簡単な仕事でも手に負えなくなって、同役に教わりながらなんとか勤め続けている裡に何か難しい遠国への使いなどの仕事が入ると、その時になって慌て出し、旅行の支度に取り混ぜて先輩・同役の許へ通ってどうしたらいいかを教えてもらい、古来から伝わる勤務マニュアルなどを借用して漸くに其の場を勤めて事を済ます・・・。
こういうのは幸いにして免れたというだけであって、本道の事とは言えない。

何故なら、武家の諸役儀といったって限りあるものなのだから、其の身が無役の平士で、明け暮れただボケェ〜っとしている裡に、いつ何時どんな役儀を仰せ付けられるか、主君の思し召しは計り知れないからと覚悟をして、諸役儀の勤め方を常に心の中でシミュレーションし、自分の親類縁者の中に特定の役職に通暁した者がいるなら、其の者と会う序でに、どうせなら無益の雑談をせず、後々役に立とうかと思われる事等を幾度も質問し、詳細に記憶しておく。
或いは、古い控え、覚書、絵図なんかも、譬え当分は必要が無くともかり集めてきて披見し、或いは書き写しておき、特定の役儀の勤め方の大筋を理解してしまう。
こうしておけば、何時何役になってもパニックを起こさずに済むのだ。
其の上で現場で知識の不足を感じたなら、その時は先輩・同役に頼ればいい。
初心者なら当然の事と割り切ってしまう。

万一戦争が勃発した場合、慌しい状況下では熟練の先輩にいちいち教わりながら行動する事など考えられないから、良くも悪しくも自分で行動を決定しなければならない。
就中軍中の使い番などというのは、人数の多少、陣取り備立の良し悪し、城の堅固・不堅固、或いは地形の利・不利、全体の戦況迄をも判断せねばならない。
だから軍使役というのは、古来難しいと申し習わしている。

だが使役なら、譬え自分の偵察結果が間違っていたとしても、恐らく其の身一人の不覚・越度という事で濟むだろう。(そうかぁ?)
併し既に足輕大将より上のポストに就いていて、采配を取って人数を引き回し、作戦を決定する権限を与えられているというのは、至って重い役職である。

何故なら、「勝つ手前は人を討ち取る。負くる手前は人に討たるる」というが、これは古今戦法の定まり事である。
従って味方諸勢の生死に関ってくる。(んん?意味が通じんな。)

然るにそうした認識も無いのに、なまじっか采配を揮う権限を与えられた事で増長して諸士の上座を汚しているというのは、沙汰の限り、不届きの仕合である。

禅僧などでいえば、平僧の時分、朝寝昼寝を勤めとして宗旨の学問を怠り、出世する年齢になって頭が禿げたからといって長老・和尚に成り上がって、身に色衣を纏い、手に払子などを握り、数多の大衆に説教するのと等しき様子である。

只、上記のまいす和尚の場合は、晴れなる法席に臨んで何ぞ不埒があれば、大衆一同の物笑いとなり、其の身一人が恥を掻いて引っ込み申すばかりの事で、其の下の大衆へ懸かる難儀などは無い。

それとは違い、武家に於いて士大将・者頭・物奉行などいう和尚役を務める武士が、采配を振り損じて指揮を誤った場合は、戦闘が劣勢に陥ってしまう事で味方士卒に被害者を出してしまう。そういう実害を伴ってしまう危険性は高いのである。

爰の所を能く能く分別し、仮にも武家として勤めているなら、無役の平士で暇がある時から士の兵法は言うに及ばず、軍法戦法迄も常々心に懸けて伝授を極め、自分の担当外の職種の勤め方は言うに及ばず、譬え采配所持の職であっても勤められないという事のない様に学問修行するのは肝要なのである。
初心の武士の心得のため、仍って件の如し。

 
十二
主君を持って奉公する武士の中に、三段階の品位がある。

@、忠節の侍。A、忠功の侍。B、忠節忠功の侍。

先ず「忠節の侍」というのは、何事によらず主君の御爲に、自分以外の朋輩の達成し兼ねる大切の奉公を、自身一代に只一度なりとも相勤め、其の事を主君に疎かならず評価して戴く事で、家老・年寄りなどといわれる面々も是を知って(自分を)粗雑に扱わず、
「たとへ常々の勤方におゐては疎略あり共此者の義は格別」
と言われる様に、上の覚えが目出度い侍の事である。

次に「忠功の武士」というのは、
「何をさして是は一かどある忠節」
という程の功績は無くとも、どんな事があっても主君の事を第一と考え、奉公の事となると昼夜を限らず、自分の職務は言うに及ばず、譬え同役傍輩の病欠の助っ人勤務であっても、自ら進んで少しも油断なく相働き、勿論自分の受け持ちの役儀などには一層念を入れてよく奉公する者を「忠功の武士」という。

扨又「忠節忠功の侍」というのは、心に忠節の信を差し挟み、然も又、外面に忠功の勤めを励んで、例えば鞍二口の馬を見る如き(意味不明)武士の事である。

先に書いた、忠節一片、忠功一片の武士であっても、それが悪いと言っているのではないけれども、忠節忠功の二つを兼ね備えた武士と較べては遥かに劣ったものである。

ここのところをよくよく了簡し、仮にも其の身を委ねて奉公人となっているからには、「忠節忠功の二つ共兼ね備わった武士と呼ばれぬ様では納得いかん」くらいの心懸けがなくては駄目である。
以上三段の兼ね合いに一つも該当しない様な武士を指して、「武家の穀潰し」というのだ。
初心の武士の心得のため、件の如し。

 
十三
奉公する武士である以上、主君の御威光を借りなければならない時もある。
又、主君の御威を盗むという事もある。
扨又、主君の御立場であれば、家来に御威光を貸すという事もある。
又、家来に威を(わざと)盗まれさせ給うという事もあるのである。

何故かというと、何か重い役職に預かる武士が居たとして、其の身が年若いか、又は小身であるか(役職と家格の違いを指したものか)、扨は家中の雰囲気によっては、主君の御威光を笠に着て動かなければならない(事もある)。

然らば、畢竟、上の御爲なのであるから、暫く主君の御威光を借り請け、我が身に威勢を付けて、目前の仕事を取り計らう様にする・・・というのを名付けて、
「主君の威勢借る」
という。(そのまんまだぁ!)

そういう事もあって、人を動かす事も出来、御用の障りならぬ程度にとさえ気を付けていれば、初めに拝借した主君の御威光を返進して、自分は元々の役職相当の権威のみを持って慎み勤めてこそ尤もであるのを(文がおかしいが、直訳であるので御勘弁)、諸傍輩をはじめ、他所他門の者に迄、「誰殿の御昵懇である誰様」と呼ばれて自分の横の繋がりが広いのを悦び、其の上人を使うにあたっては内証の強みも手伝って欲心に惹かれ、遂には主君の御威光を借り倒し・・・借りたら借りっぱなしにしてしまう・・・というのを名付けて、
「主君の威を盗む」
という。(これもだぁ!)

且つ又、主君の側も、時の様子によっては御自身の威光を家来に貸して、威勢の付く様に為されようとの御奥意有る上での事であれば、一段と御尤もの至りであって、古の名君・賢将達にも、そういうためしは如何程もあるのである。これを名付けて、
「主の威をかす」
という。(あのねえ・・。)

だが其の御用も片付き、最早よい頃合となったら、初めに貸し置いた御威光をそろそろ御取り返しなされなければならないところを、気長に何時までも便々と貸し置かれなされておられるところから事が起こって、仕舞いには取り返し辛い状況に陥ってしまい、つまりは貸し倒れの様な状態になっていってしまうのである。これを名付けて、
「家来に威を盗まるゝ」
という。(名付けるにしちゃあ長いっつーの。)

万が一そうなってしまっては、主君の御身にとって大きな御恥辱となるばかりではなく、計り知れない損失を生じ兼ねない。

例えば、家来に威勢が付き過ぎてしまえば、自ずから主君の御威光は薄くなり、何もかも家来次第の様になってしまい、
「あの人さへ能呑込て合點なれば御上の義はあの人次第にて事濟埒明」
という様に諸人が思ってしまうから、譬えて言えば、太陽系に恒星が二つある様なもので、大いに宜しくない。

二つ目には、一家中の諸士下々に至る迄、その者の機嫌を取る事を肝要だと思い、主君の御事を軽く思ってしまう事により、主従のコミュニケイションもとらぬ様になり、自然と家中に忠義の武士が育ち難い環境になっていくから、戦争が勃発した時になって有能な人材に事欠くという事態に陥る。

三つ目には、主君の御側近くに勤務する者も、そうでない者も、或いはおとなしい役儀を勤める侍共迄も、かの者一人の権勢に押され、竦み返ってしまっている様な状況であるから、
「是は主君の御爲宜しからず」
と思う様な事でも、一言も申し出る事が出来ず、或いは心の中で悔しがり、扨は共傍輩との内緒話では話題に上ったりしても、その中の誰かが進み出て「かやうの仔細」であるという事を主君の御耳に達し、御覚えおかれなされる様にと注意を促す者も居ないので、(主君が)件の人物の依怙贔屓・内證の榮耀・驕りなどを御存知になられる筈もなく、その人物のする事なら何もかも間違いなかろうと思い込んでしまい、そうした油断の末に大きな問題が生じて、
「人をよく御存知なきは主君の大将のといはれさせ給ふ御人がらには似合不申」
という世の譏りに遭うのは必定である。

其の上、主君の耳目をさえ憚らぬ様な驕りを持っているのでは、況してや諸傍輩の思惑を憚るなんて氣はさらさらないのであるから、小役人共を言い含めて、例えば自分の知人の近付きの人物へ付け届けをするにも、主君の金から支払い、そして先方からの返礼の音物は自分の懐に入れてしまう。
其の他、他所他門の来客などをもてなすのにも主君の御台所から、酒の肴の茶の菓子のと持ち運ばせて、主人の物は自分の物。自分の物は猶自分の物♪という様な行動に出る様な状態であるから、畢竟は藩の財政を圧迫し、これまた御損の一つである。

以上の次第をよくよく了簡し、主君を持って奉公する武士は、上の覚えがめでたくて、御目をかけて戴いているなんて場合には、猶更我が身をへりくだり、心の驕りを押さえ慎み、兎にも角にも主君の御威光が照り輝きます様にとの願いの他は無い様に覚悟する事が肝要である。

「忠臣は君有事を知て身ある事を知らず」
とやらいう古語もあるという事を聞いている。

譬え事の首尾により、時の様子によっては主君の御威光を拝借するにしても、永借をせず、すぐに返進し、必ず以って、主君の御威光盗人の名取りをしない様に覚悟するのは尤もの事である。
初心の武士の心得の爲、仍って件の如し。

 
十四
大身小身共に、武士たらん者は「勝」という文字の道理を能く心得るべきものである。

理由をいうと、「勝」という字を「すぐれる」と読む場合なら、兎角人にすぐれた点がなくてはよい武士とは言えなくなる。

例えば萬の武藝なども多年精進して勤め習い、名人の境地に至らぬ迄も、せめて上手といわれる位になれば、これはもう人にすぐれているのである。

或いは主君へ奉公する様な場合でも、並み居る傍輩を抜きん出て、「扨もよき勤かな」と人の目に見える様なのは、是を指して「すぐれたる勤方」というのである。

就中、戦時下に於いて、
「人々の行所へならば身共も行べし人のこたゆる(堪える)程の場所ならば手前もこたへて居べし」
とある様では、さのみ感じ所も褒め所も無い状態である。

味方の諸人が互いに顔を見合わせて突入し辛い地点へも只一人突入し、他の人間が守備・確保に手間取っている陣地にも、自分一人踏み止まって居るようなのを、「すぐれたる剛の武士」と言うのである。

其の他、何事に関しても、人にすぐれんと思う心懸けがなくては人並みにもなれないと心得て、何事にも精を入れて勤める事が肝要なのである。
初心の武士心得の爲、仍って件の如し。

 
十五
武士たらん者は、大小上下を限らず、第一の嗜みといえば、其の身の果て際、一命の果てる時の善悪に究る。

常々どんな大口を叩き利根才覚に見える者も、最期の時に臨んで前後不覚に取り乱し、最後が宜しくない様では、それ迄の善行は皆々水の泡になり、心有る人に酷評される事もあるであろうから、是は大いに恥ずかしい事である。

武士が戦場に臨んで武辺手柄の働きをし、高名を極めるというのでも、平生から討ち死にする覚悟を極め置いてある上での話である。

それであるから、偶々運悪く勝負に負けて敵に首を取られる場合にも、名前を訊かれてははっきりと姓名を名乗り、にっこと笑って首を取らせて毛頭も悪びれた気色もなく、或いは外科的治療でもどうにもならない様な深手を負ってしまっても、正気さえあれば番頭・組頭・諸傍輩の聞いている前でしっかりと物を喋り、受けた疵の痛みを制御して平静さを保ち、尋常に相果てるというのは武士の正義第一のところである。

こういう事を心懸けていれば、静謐の時代であっても武士を嗜む者は、其の身が老人であれば言うに及ばず、譬え年が若くても、大病をして養生も適わず、段々と気分も滅入ってくる様な状態になってきたら、兼ねてから其の覚悟を極め、今生に気懸かりな事の少しも無い様にして、其の身が重い役職に就いているなら勿論の事、仮に輕い役職であっても、もはや是迄と思える程の容態に差し詰まったら、なんとか物の言える裡に番頭・支配頭などを招請して対面の上、
「年來上の御厚恩に預り罷在義なればいかさまも一度は御用にも相立候様常々相心懸罷在候得共如此の重病にかゝり色々養生仕り見申候へ共本復難仕次第に罷成候上の御用にも相立不申候て病死仕る段近頃残念に存候へ共其段は不及是非候唯今迄の御厚恩難有仕合奉存候彌相果候におゐては御家老中迄此段被仰上被下候様に」
と主君への御禮を申し述べ、其上にて私用の義もあるならば申述べる様にするのは尤もの事である。

そういう事を済ましてしまった上で、一家一類又は昵懇の朋友などにも最後の暇乞いをし、其の時子供も呼んで、
「我等義多年上の御厚恩を蒙りながら病死致す段武士の本意にあらず。然りといへ共當時治世の義なれば其段におゐては是非に不及所也。其方共義は年若き事なれば我等が志を續て若自然の義も有之におゐては是非上の御用に可相立とある覚悟を以常に忠節忠功の志をはげまし御奉公の道に油断仕る間敷もの也。我等末期に至り如此申置所の遺言に違ひ若不忠不義の仕方有之におゐては草葉の陰におゐても勘當と心得べし。」
など、ちゃんと遺言しておくというのは、信の武士の正義である。

唐の國の聖人の言葉にも、
「人のまさに死なんとするに至りて其のいふ事よし」
とやらいうのがありげである。(←と哉らん有之げに候)

以上の様にしてこそ武士の最期と言えるのに、本復ならぬ病気を煩っているにも関らずに病気を自嘲し、自分の病気の事を人が重病ではない様に言ってくれれば喜んで、重病と言われる事を嫌がり、あれのこれのと医者を呼び、叶わぬ祈念願い立てなんかしてパニック状態に陥り、病気は徐々に重くなっていくのに「相果てべき」という覚悟も無く、(残された者に)一言もこれといって言い残す事もせず、悉皆犬猫の病死も同然の有様で人間一生の臨終の致し損じをするというのも、この書のはじめに言った「常に死を心にあつること」をせず、例えば他人の死骸と聞いて、いまいましい位にしか思わず、自分はいつ迄もこの世に居る筈だという様に考えており、欲深く「生」を貪る心から起こる死にぞこないである。

治世に於いて重病に罹り、様々な治療を施しても効果が無く、段々病状が指し詰まってきても死ぬ覚悟を決める事が出来ない。
こんな根性で戦場へ赴き、何の意趣も無い敵と遭遇して、「忠義の道をかく間敷」との決心を根拠にした晴れなる討ち死になんて事が出来る訳が無い。

爰を以って、武士を嗜む者は畳の上に於いて病死を遂げる事を一生一度の大事というのである。

先にも言った様に、今時主人を持った武士は大身小身に限らず、天下泰平であるから、身命を賭けての奉公などという事は、親の代にも自分の代にも全くなくて、一度だってそうした事をした事もなく、何十年となく過分の知行・切符を拝領し、費やしながら、畳の上で病死を遂げるに於いては子孫への遺言・申し置き等をまずしておいて、「主君の御厚恩に預り忝き」という御礼をこそ申し上げるべきところを、そういう気遣いもなく末期に至り、番頭・支配頭などを呼び迎えても自分の子孫への家督相続の事だけを専一に頼み入れるというのは無念の至りであり、武士の正義ではない。
初心の武士の心付けで肝要のところである。仍って件の如し。

 
十六
武士道は剛強の意地があることを第一とするというのは勿論の事であるとは言っても、偏向に強いばかりで田夫野人の躰であるのも、なんだか農民上がりの武士を見る様で、然るべからずである。

学問・歌学・茶の湯などというのは是皆武藝というのではないけれども、少しずつはかじって心得がある様にしておきたいものである。

先ず学問がなければ、古今の物語の道理を理解して教訓として生かす事も出来ないから、如何に自分が世智賢く、差し当たり利發であっても、問題のジャンルによっては是非の判断がし難くなってしまう事もないではない。

外国と吾が国の違い(これは例えば、孔子の言動を自分の國の状況に当て嵌めて・・・という類いのケースを想定して話しているものか。そこら辺をはっきりと書いてほしいものである。)を詳細に理解した上で、時と場所と位の三つをよく考え合わせ、最良の対処法を講じる様にしてさえいれば、物事に失敗する可能性は減じてゆくものである。
この点から学問を肝要というのである。

但し、自分勝手な解釈をして物事を理解した積もりになってしまうと、大抵は我儘になり、無学文盲な人間の事を、たとえその人物が心懸け強い良い武士であっても20%程割り引いて見てしまい、其の上矢鱈と外国風ばかりを正しいと認識して、仮に其の教えの道理は通っていても、我が国の、しかも現代の状況に当て嵌まるかどうかという点を考えもせず、片意地を張って自説を押し通す様になってしまう。
こういうのは散々の事である。

何故かというと、我が国にも古くからそういう名人・君子は長年の間に如何程も輩出しており、其の人たちの研究成果は非常なものであって、優れた才覚を以って中国大陸は言うに及ばず、その向こうのインド辺りの情報も委細に入手し、或いは人を差し向けて情報収集させた上で、猶又その情報に研究を加え、日本六十余州に唯一王と定め、就中三種の神寶御相伝の次第、並びに五摂家などという家々を定め、其の他公家は公家地、家は地家と厳密に区別されているのは日本だけに限った作法である。

其れのみならず、男女の形振り、衣服・家屋のつくり、機材雑具の製作に至る迄、物事の細かい点に迄心を配り、殆どは異国の作法に随ってはいるが、その作法を悉く作り変えて万事万端外国の風俗を日本風にしてしまう事を以って、万代不易の神道と言えるのではないかと、それがし如きの至らぬ分別の上にも推察してみているのである。

然るに今時の若い武士は、学問の仕方を間違っちゃあ、万事中國流が至上のものだと思って、自分の本国であり生国である日本流をあなどっている様では、一向に無学文盲であって、「武士道は強み一片」と思い込んでいるよりも遥かに劣っていると言える。
爰のところをよくよく分別して学問をしなくてはならない。

次に歌学であるが、これは和朝の風俗として公家方は言うに及ばず、武家に於いても古今の名将・勇士の中に歌道の達人は幾らでもいるのだから、譬え小身の武士であっても歌道をかじって、折に触れて「腰砕け」みたいな一首でも綴ってみる程度にはありたいものである。

併しこの歌学も、好きが昂じてマニアになってしまうと、古来、歌仙とも言われる人の口からですらオイソレとは出まいと思われる秀歌の一首も、是非読まなくてはならないと思い込んでしまう事で、万事を抛っぽりだして歌学のみを専らとしているから、何時の間にか心も仕草も「生柔らか」になって、公家侍を見る様であって、武士の風俗を取り失う様な事になってしまうのである。

就中、今流行りの俳諧なんかにのめり込んでしまうと、何時もは隔意にしている傍輩と会った時の話の種に、ややもすれば輕口が出て、そのどさくさに一句でも出したりなんかすれば、場が持った様な感じにはなるかもしれないが、惣じて武士の輕口たたきは今も昔も誉められた事ではないとされているから、そういう際の慎みは肝要である。

扨、茶の湯も京都将軍家の時代から、専ら武士の玩びとされてきた経緯からして、譬え自分で茶を立てる事はなくても、人んちに茶を御呼ばれに行って、或いは貴人・高位の人の御相伴などにも預からないとも限らない。
そういう時、路地の入り方、数奇屋の入り方、諸所の飾りの置き方の見方、或いは料理の戴き方、茶の飲み方等にも種々の心得がある様であるから、茶道の師匠に就いて、少しは心得ておいて然るべきである。
しかも数奇屋については、世間の福貴榮耀を離れて、幽居閑栖の境界を楽しむのを以って肝要とするのだそうだ。

であるから、どれ程繁栄している地、又は官家の敷地内であっても、庭に木を植え込んでは山林渓谷の風氣を写し、竹の樽、皮付きの柱、萱を葺いた軒下、地窓の簾、猿戸、枝折戸などの侘を感じさせる装いを宗とし、其の他、茶具会席の道具に至る迄、華麗を好まず専ら世俗風なのを厭い嫌って、偏に清閑の富というものを抱くのを数奇道の本意とするのだから、少しは武士道の意味を知る爲の助けともなるものの様に思われる。

そういう事であるから、譬え小身の武士であっても自宅の横に茶を立てる場所を作って、新筆の掛物、焼いたばかりの茶入れ、茶碗、土鑵子などの軽い茶具を用いて、侘茶の湯を愉しむ程度の事は悪くない。

だが、万事について言える事であるが、軽い気持ちではじめたものでも、それに嵌まり込んでしまいがちであるから、じきに身の程を弁えずに色々欲しがる様になって、人の所持する芦屋の釜を見ては自分の釜が嫌になったり、其れ以外の茶具についても次第にいい物ばかり欲しくなるが、小身の身では思うばかりでちゃんとした道具を揃える事など出来ないから、「掘り出し物を探そう」なんて事になり、挙句に目利きなんかし出しちゃって、安値でいい道具を見つけ出す事に執心し、或いは人が持っている道具の中に、何か「お♪」と思う様なのがあったりすると、外聞もなく「下さい」とか始まったり、又は自分の道具なんかにするのにも、少しでも自分の得になる様に、損をしない様に・・・なんてことばっかり考えているから、悉皆「とり買い・仲買」などいう町人の根性に等しい様子であって、武士道の正義を取り失い、大なり小なり人柄が悪くなってしまうのは必定である。

そういうマニアとなってしまうよりは、一向に茶道不案内で、
「濃茶とやらんは如何様にのむ」
という様な事も知らない不調法であっても、それが武士道の障害にはならないであろう。
初心の武士の心得の爲、仍って件の如し。

 
十七
奉公する武士は多い以上、中には様々な事情で不仲になってしまう者同士がでるのは仕方の無い事である。

然るに、主君の仰せで(人事異動)其の不仲の相手と同役になってしまったら、早速其の人物の元へ行って、
「我等儀、今度貴殿と同役に被仰付則御請に及び候。其許と手前儀は日比義絶の儀に候得共、既同役と仰付られ候上におゐては、毛頭も私意をさしはさみ候ては上の御爲に罷りならず候間、向後の義は互に無隔意申合せ、とにもかくにも御用の相滞不申様に無之てはと存る事に候。其許の義は當役におゐては先輩の義に候へば、諸事御指南を頼入申外無之候。唯明日にも貴殿我等の何れ成共他役にかわり同役をはなれ候はヾ又義絶に及び候共、それ迄の義は随分無隔意申合せ候外無之。(句読点・須保)」
という点を申し合わせて、互いに心を合わせて勤めるというのが武士の正義である。

況や日頃不仲でもない傍輩と同役になったのなら猶更昵懇にしなくてはいけない。
然るを、ややもすれば同役と手柄争いをし、殊に新たに着任したばかりで諸事に不案内な同役には氣を懸けてやって首尾良く勤めさせてあげようという優しい気持ちも無く、自分が役向きに習熟しているものだから(新人が)失敗などしたのを見ては面白がっている様なのは、武士道の正義に外れ、むさいとも汚いとも、どうにも言い様がない。

そういう心立ての武士は、戦時下には必定、首の奪い合いをしたり、日頃気に入らない同僚をドサクサに紛れて殺してしまったり等の卑怯な大不義を働いてしまう様になるだろう。
恐れ慎むべき事である。初心の武士の心得の爲、仍って件の如し。

 
十八
「白無垢の小袖と役人とはあたらしき内がよき」
と言われているのは、何気なく使われる格言だけれども、一段尤もの至りだと思う。

理由は、白小袖の新しい内は綺麗なものだが、久しく着用する裡、襟廻り・袖口の辺りから汚れ始めて、程なく鼠色みたいになってしまっては見苦しく、むさいものである。

扨又、仕事に取り掛かる役人等も、新人の裡は万事丁寧に主君の仰せ付けを真面目に守って勤務し、ちょっとした事でも大事と心得る。

就中その役儀に就いての勤務規定も氣に懸けて、少しも違背しない様にと恐れ慎むから、業務全般に越度がない。

それであるから「無欲正直なるよき役人哉」と、家中一同の賞賛を受ける様な者も、その役向きを長く勤めて仕事に習熟し、その役向きに伴う全ての作業をマスターしたと過信してしまい、新人の時には犯さなかった間違いを犯してしまう様になってしまうのは必定である。(また文章がおかしいな・・。)

それのみならず、新人の時には人から貰った音物音信なども(受け取るのは)禁止事項に触れるからと手際良くお返しし、若しまた受け取らざるを得ない状況であれば、たとい受納しても後日それに見合う返礼をすっるのであれば、「扨もいさぎよき仕形かな」と諸人の誉め事にも預かっていたものも、いつの日からか了簡が違ってきて、
「今此役義勤る内、少し成共握りため置ずしては」
という欲心が起こる。
が、他の音物を受けないという決め事を自己に課してきた以上、今更受け取れないという心の動きは表情や言葉の端々にも現れるものである。
先方も馬鹿ではないから其の辺りを汲んで、表面上は何も無かった様に振る舞い、あるいは知人を恃んで渡すとか、様々な手段を講じて物を送ろうとする。
そうして品物が届けば、幾らでも受納します状態になり、しかもその返礼として不正な人事など、送り主に対して依怙贔屓をするという図式が成り立つのがオチだ。
こういう汚れ様というのは、先に述べた白小袖が鼠色になったのを見る様なものだ。

偖又、白小袖も汚れっ放しにしておかず、折節すすぎ洗濯をさえすれば、いつも白くて見苦しい状態にはならない。
役人も同じ事で、我と我が身の汚れ目に気を付けて洗い・濯ぎさえすれば、ムサく汚く汚れ廃る様な事にはならない道理である。

但し、白小袖の汚れるのは人体から出る垢と、恐らく空気中のごみ・ほこりによる穢れであるから、よい「あく」(洗剤の事であらうか)で洗いさえすれば垢も染みも消えて、洗い上がりスッキリになる。

人の心には種々様々の物が染み込み、其の汚れは深いものであるから、大雑把に洗った程度では綺麗にするのは困難である。
其の上、白小袖の場合は年に一度か二度洗えば濟むものだ。(え!?)
人の心の洗濯というのは、二六時中、行住坐臥、事々物々総てに関して心を用いる度毎に、或いは揉み洗い、または振り濯ぎ、はたまたディスククリーンアップをし、然らずんばデフラグをして、油断隙間なく洗濯していても、洗ったそばから汚れや穢れが付いてしまい易いものだ。

但し、白小袖に限らず、何の汚れを落とすのにも洗剤のグレードに左右される。
また、垢のまま落ちる薬品などもあるとか。(なんのこっちゃ)

そんな薬品を使うかの様に、強力に武士の心の汚れを落としてしまう洗剤が三つある。「忠・義・勇」これである。

場合によっては「忠貞」製の洗剤で落とす垢もある。
又は「節義」製の洗剤で落とす垢もある。
(原文・「節義のあくを以て落すあくも有之候」───余りに「あく」と「垢」を交互に頻繁に書いたので混乱したのだろう。あくをあくで落としてどうするのか。)

これについては、猶又一つの秘傳がある。
それはなにかといえば、前述の如く「忠」を以って洗い、「義」を以って洗っても汚れがしつこくて落ちない場合は、「勇猛」の洗剤を少し加えて、最大筋力の90パーセント以上の力で無二無三に揉み洗って、さっぱりと濯ぎ上げるのだ。
これは武士の心の洗濯の仕様の口傳である。
初心の武士の心得の爲、仍って件の如し。

 
十九
世間に於いては、自分の兄の子も弟の子も「甥」と言い、自分の姉妹が他家へ嫁いで儲けた子の事も同様に「甥」と呼称して、いずれも同じ事だと思っているのは町人・百姓の上での事である。

武士というものは内面に義理筋目を立て、表面に作法を乱さぬ様にしておかねばならない。
故に三民の輩とは区別すべき事がある。

例えば、其の家の嫡子たる長男の子は本家を相続するのだから、自分の甥だとはいっても、親や兄の跡式を継いで「惣領家」と称する人物であるので、譬え兄が死んで甥の代となっても、自分が甥に対して親や兄を慕う様に振舞うというのは、まったくその甥に対して慕うのではなく、偏に家元の先祖を敬う心からである。

しかし兄の次男・三男、或いは自分の弟の子供などへ対しては、世間並の伯叔父甥の接し方をしていれば済む。

扨又、自分の姉妹の子供も甥には違いないのであるが、これは他家の姓を受けた甥であるので、普段の言葉遣いや手紙の文言などにも隔意を仄めかせ、少しは慇懃にする様な事も当然である。
且つ又甥に限らず、弟や我が子であっても、他家に養子に出しているのであれば、一向他人に接する様に振舞う心懸けがあって然るべきである。

それが仮に身内だけの集まりの場での言葉遣いなら話は別だが、他所他門の人達と同席しているなら、他人行儀に振舞うべきである。

他家へ養子に出した後も、猶我が子・我が弟の様に世話を焼こう所存であるなら、はじめから自分の手元に置いておいたら良いではないかと、養父方の諸親類に内心そう思われてしまうに違いない、

但し、養父方にこれといった親類も無く、其の上締りの無い家風であって、これでホントに家督相続の手続きなんてして貰えるんかいという様な様子であれば、そこは実子実弟であるから心配なのは当然である。

次に、我が娘を他家に嫁がせて男子が生まれたとする。
其の後聟さんが亡くなって、幼少の孫が跡目を相続しなくちゃならない場合、聟方の親類縁者と会って相談する事などもあろうが、そうした場合、聟の遺産にしろ何にしろ、100パーセントの内80〜90パーセントを相手方の取り分とさせてしまうという心懸けも重要だ。

逆にその聟さんが存生中から家計が苦しく、孫がそんな跡目を継いでしまった等という場合なら、、先方の親類縁者の厄介ともなり兼ねない。
結局は自分の娘が難儀をする事になる訳で、そんな状況を抛っておける訳はないから、そうなる前にこちらがカレコレと援助してやらねばならない。

其の聟が死んだ後に、これといって経済的に不都合はないとか、又は少しでも貯金がある様ならば、猶以って舅側からの手出しはしてはいけないという慎みの覚悟をするのは武士の正義である。

その孫だって未だ幼少であるのに、(以下不明に付原文・・・其孫とてもいまだ幼少の義なるに我娘とうなつき相談を以っての後見たて一圓其意を得ぬ事也とある他人の批判もなくては不叶義也)

扨又、自分の一家の惣領筋、或いは先祖の主筋・旗頭などという関係にあたる人の家が衰え、世に落ちぶれて見る影もなくなってしまっても、少しも粗略にしないで昔の筋目を立て、折々の心寄せなどを欠かさないというのは、これまた武士の本意である。

襟元や足元にばかり目を付けて(古語辞典に依れば、「襟に付く」で、「権威ある者に媚び諂う」の意だそうである。これに「足元」が付くのは、「何でも」で済むところを「かんでも」と続ける様なものか。)、其の人が絶好調の時は敬うなど以っての他なのに敬い、権勢が衰えれば賤しむなど以っての他なのに賤しむなんていうのは、悉皆町人・百姓の根性であって、武士の正義ではないのである。
初心の武士の心得の爲、仍って件の如し。

 
二十
侍の仕事は、自分の奉公する主人の家を、子々孫々に至る迄も(繁栄させよう)と念じて勤務する事であるが、何かの事情で其の家を立ち去る場合、元の主君に(自分が去る事で)不都合が生じないのなら言うまでもないが、譬え主君から他家に奉公してはいけないとか、何処其処の土地に立ち入ってはいけないとかいう制約を受けたとしても、そうした場合主君にどの様な申し詫びをしてでも、今後他の主君の扶助を受けて奉公人となるのが、古今武家の作法である。

そういう事情があって他家の主人の家来となり、其の家の古参の侍どもとも馴染んで、日夜朝暮顔を合わせる度に雑談を交わす様な間柄となったとしても、前の主人の悪い噂話などは仮初にも言うもんか!と心に決めておくというのは、武士たる者の嗜の第一である。

何故なら、我々の宇宙は広いのに、日本の中の武士と生まれ来たって、東西南北の国主・郡主・諸城主数多ある中に、どういう宿縁によってか主従の約束をし、暫くであったとしても其の家に在って自分の身命を保ち、子供をのびのびと育てている事も主恩じゃないとは言い難い。

この事を肝に銘じておけば、譬え一日たりとて主君と仰いだ人の悪い御噂などは、仮初にも言い出さぬ筈なのである。

然るにそういった弁えも無く、元々世間に悪評など立っていなかった古主の悪い噂を物知り顔に数え立てて雑談し、披露するというのは、悉皆小者・中間の根性に等しい様子である。

譬え不行跡で、公儀の御仕置きなどに遭った経歴があったとしても、自分の古主であった人の噂ならば、譬え人が其の事に就いて尋ねて来ようとも、言葉を濁して其の悪事に関しての事は少しも演説しないというのが武士の正義である。
初心の武士の心得の爲、仍って件の如し。

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