武道初心集 |
大道寺友山と武道初心集 |
「武道初心集」は、大道寺重祐(孫九郎。老いて友山と号す。)の著になる。
友山は元々山城伏見の人である。父の繁久が慶長七年(1603)幕命を受けて越後侯徳川忠輝に仕えた。 長ずるに及んで故郷を去り、武城に来たりて小畑景憲、北条氏長に随い、且つ遠山信景、大原徳、山鹿高祐に学んで・・・とあるが、儒教か何かを学んだのか。 壮年にして浅野家に寄寓。次いで会津侯の客となるが、疎んぜられて武州岩渕に屏居。晩年越前侯の招きに応じて賓客となり、恩遇甚だ厚かった。 其の人となりは節倹剛直にして大度あり。忠信を主とし、義命を知り善く衆を容れ、平日歌を詠じたという。 著書に「岩淵夜話落穂集」。また大将傅五臣論を述べた遺稿等が多い。 享保十五年(1731)病んで江戸に死す。享年九十二。 「武道初心集」が、友山が幾つの時の著作になるかは不明であるが、其の著作生活は概ね晩年に行われた様であるので、この本も晩年の作であるかも知れない。 それに就いて、一つ逸話がある。 幕末の越前福井藩主松平慶永公は、田安家から迎えられて封を襲いだ人であるが、歳十六にして初めて江戸を発して入国するにあたり、兼ねて敬慕してやまなかった水戸烈公に、藩主としての心得に就き九条目を挙げて教えを乞うた。 烈公は其の一々に対し丁寧適切な忠告を与えたが、其の内の第三条、 武士道の穿鑿については、お宅んトコの武道初心集などに実に感じ入って居り、拙家にては城中番所番所に具足を預けておき、長い勤務時間を居眠りなんかしているよりはと、折々着用させていた処でしたが、近日、経書並びに右武道初心集を一部、番所番所へ預けて置いたんですよ。 「お宅様んトコで出来上がった(御家中にて出来候)本」というのは、言う迄も無く武道初心集であり、これは友山が晩年、越前侯に迎え入れられていた時期を指しているものと思われるのである。 それから読むにあたって、ひとつ注意を要するのは、「武道初心集」で言う「武道」というのは、現今で言う、謂わば「武術道」の意味合いではなく、「武士道」の意味であるという事である。 こうした違いは、文献の書かれた時代の違いによって生ずる。 同じ様に、この時代(地域差もあるかも知れない)、尠なくとも「武道初心集」の「武道」は、吾人の言う「武士道」の事であるのは明らかである。 |
書くにあたって |
武道初心集という本は、実はオリジナルヴァージョンと、松代藩で成立した「松代ヴァージョン」がある。
どうして松代藩で成立したかというと、めんどくさいので説明は省く。 この「松代ヴァージョン」というのは、どうも友山自身の思想的な内容を省いてあったり、オリジナルヴァージョンと較べて欠落している箇所がある様なので、今回はオリジナルの方をテキストにしたい。 しかし恐らくはネット史上初であろう、「武道初心集」全五十六項目を全文紹介しようと言う、馬鹿な真似を私はやろうとしているが、読んでくれなくてもいいや♪という開き直りと、意地でやってしまおう。 文章は私が訳してしまおう。 それから、現代では不適切な表現も、原文の歴史性に鑑み、其の儘ばしばしがんがん使っていく事とした。 読むと長くて飽きるし、「そんな時間あるか!」という向きもあろうかと思うので、読んで下さるにしても、一日一章ずつ位のペースで、ネットに繋いだ序でとか、どぉ〜〜しても暇な時とかに読んで戴きたい。 尚、文章中殆どギャグじゃないかと思われる箇所があるが、別に私が脚色した訳ではないので。念の為。 |
武道初心集 |
武士たる者は、正月元日の餅を祝うからと箸を取り初 死をさえ心に留めておけば、忠孝の二つの道にも適い、萬の悪事・災難をも遁れ、其の身は無病息災にして寿命長久に。 其の理由はというと、よく人間の命を夕べの露、朝の霜になぞらえ、随分はかないものの様にいう中にも、一番短命なのは武士の身命であるべきところを、実際そこら辺の人々(武士)は、臆面も無く(己が心すましに)何時迄も長生きをしようなんという了簡であるから、主君への末永い御奉公、親への孝養もどうせ長く続くんだろうと思っているから(「から」が二度続いておかしいが、そうかいてあるんだもん!)余計な馬鹿をやって、主君へも不奉公をし、親への孝行も疎略になる。 今日あっても、明日はどうなるか分からない身命とさえ覚悟していれば、主君へも今日を奉公の致しおさめ、親に仕えるのも今日を限りと思えばこそ、主君の御前へ罷り出でて御用を承るにしても、親の顔を見上げるにしても、「是を限りと罷り成る事も・・・。」と」思う様な心になる事で、主や親へも真実の思い入れとする様にしなくてはならない。 扨、死を忘れて油断する心から、物事に慎み無く、人の気に障る事なんかを言って口論に及び、聞き捨てりゃあ済む事をも聞き咎めていちいち突っかかっていき、或いは益も無いのに遊山物見の場所なんかに行って、人ごみの中だっつってもよしゃあいいのに歩き廻って、何処の馬の骨ともわからん馬鹿者等に因縁つけられて喧嘩に及んで命を落とし、挙句に主君の御名を出したりなんかしたもんだから、親兄弟に迷惑を掛けた・・・なんていうのも、みんな常に死を心に留めぬ油断より起こる災いである。 死を常に心に留めている時は、人に物を言うのも、人に返答するのも、武士であるからには一言一言を慎重に選ぶのは大事な事だと心得る事で、訳も無く口論等せずに済み、勿論下手な場所へは、人に誘われても行かないから、不慮の首尾に出合う事も無い。 高貴な人も賤しい人も、死を忘れるから過食・大酒・淫乱等の不養生をして脾臓・腎臓の疾患なんかを生じ、思いの外に若死にをして・・・譬え存命であっても、何の役にも立たない様な病人と成り果てるのだ。 死を常に心に留めている時は、実際年齢よりも肉体の年齢が若く、無病息災だと言っても、日常から補養の心構えを持ち、飲食に節制をし、色の道を遠ざける等、嗜み慎む故に肉体のタフさが保たれるのだ。 其の上、死をまだ先の事の様に思っている状態では、この世に長く逗留するとの認識があるから、色々望みも出て来て慾深くなって、人の物といえば欲しがり、自分の物は惜しみ、悉皆町人百姓と同じ様な根性になるのだ。 死を常に心に留めている時は世の中が味気なく感じるから、貪欲な心も自ずから薄くなり、欲しい・惜しいというムサい根性も、それ程頭を擡げない道理である。 但しである。死を如何に心に留めるとはいえ、吉田の兼好が徒然草に書いている「心戒」なる比丘尼の様に、二六時中死期を俟つ心で唯蹲っているだけみたいなのは、出家沙門が心に死を留める修行としてはいいかも知れないが、武者修業の本意に適うかというと、そうではない。 そういう形で死をあてこんでいては、主君・親への忠孝の道も廃り、武士の家業も缺(欠)け果ててしまうから、大いによろしくない。 昼夜を問わず公私の諸用をこなし、ちょっとでも身に暇が出来てゆっくりしている時は死の一字を思い出し、懈怠無く心に留めて置けという事だ。 楠正成が子息正行に教えた言葉にも、「常に死をならへ」とあるのを伝え聞いている。初心の武士心得の為、件の如し。 |
武士たる者は行住坐臥二六時中警戒心を研ぎ澄ましておく事が肝要である。 我が国は海外の国々と違い、どれ程身分の低い町人・百姓・職人躰の人間であっても、身分相応に錆び脇差の一腰づつも携行している。 是は日本武国の風俗であって、万代不易の神道である。 そうは言っても、三民は武を家業とはしていない。 随って心懸け深い武士は常に、譬えば入浴する際にも刃引き刀、或いは木刀等を用意して置くというのも、セキュリティを心懸ける故からである。 其の身が武士として腰に刀剣を帯びているからには、即時の間も危機意識を忘れ様筈も無い。 腰に刀剣を差し挟み乍らも、危機意識を常に持たない侍は、武士の皮をかぶった町人・百姓に少しも違いが無い様に思える。 |
武士たる者は三民の上に立って書を取る職分であるからには、学問等を通して広く物事の道理を弁えていないと勤まらない。
そうは言っても、乱世の武士の場合だと、15,6歳にもなれば必ず初陣に立って、一騎役なりとも勤めなくてはならないから、12,3歳にもなると馬に乗り、弓を射、鉄砲をぶっ放し、其の他一切の武藝をマスターしておかなければいけないので、見台に向かって書物を開き、筆を執る様な暇は殆ど無いから、自ずから無学文盲になって、一文字を引く事さえままならない様な武士は戦国時代には幾らでも居たけれども、あながち本人の不心懸けとも、親の躾が悪いとも言えない。 だからといって、天下静謐の世に生まれた武士だから武道の心懸けを疎略にしてもいいと言っているんじゃないけれども、乱世の武士の様に15,6歳からはどうしても初陣に立たなくてはならないという様な世の中じゃないんだから、10歳位になったら四書五経七書等の勉強をさせ、手習いなんかもして物を憶える様にと油断無く教育し、扨15,6歳にもなる頃には体も出来、体力も付いてくるのに随って、弓射・乗馬その他一切の武藝に習熟させる様にするのが、治世に於ける武士の子の育て様であるべきだ。 前述した乱世の武士の文盲にはそれなりのいい訳もきくが、治世下での武士の無筆文盲のいい訳はし難い。 |
武士たる者は、親への孝養を厚くする事を第一義とすべきである。 譬え自分の利発さ、才覚が人より優れていて、弁舌も立ち、器量も良く生まれていても、親不孝の人間は何の役にも立たないのである。 理由を言おう。武士道というのは、其の本末を知って正しく行うのを肝要と認識すべきものである。本末の弁えなければ、義理を知るべくもないのである。 扨、本末を知るという事についてであるが、親というのは自分の発生源であって、自分の体は親の骨肉の末である。(須保孫右衛門角長注・「山岡鉄舟」の項参照) 且つ亦、親に孝養を尽くすのにも二段階ある。 理由を言おう。全くの他人でさえ、御互いに友情を深め合って昵懇になり、こちらの身の上・勝手向きの事までも親身になって心配して兎や角世話を焼いてくれる様な人に対しては、こちらも大切に思って、「たとへ手前の事を差置きても其人の用ならば」と思ってしまうものだ。 況や自分の親が、親として慈愛たっぷり、親として出来る事を全てやってくれた・・・なんて場合、子供としては、どれ程孝養に尽力したところで、「是にて事足れり」と思える筈はないのである。 もし親が根性が悪くて、剰え年をとって僻みっぽくなって、くだらぬ理屈だてばかりをし、自分の財産を全部子供にくれた訳でもなく、決して楽な生活状態とはいえない子供の厄介になって面倒を見て貰っているのに満足すべきところを、其の弁えも無く、朝夕の飲み物・食い物・衣類に迄もケチをつけ、剰え他人に会うと、「倅めが不孝奴なれば老後に存よらぬ苦労を仕思召の外迷惑いたす」等と触れ回って、吾が子の外聞を失う事を何とも思わない様な、思い違いをした親。 こういう親に対しても親と崇め、取りたくもない機嫌を取り、只管に親の老衰を悲しみ嘆いて、少しも手を抜かずに孝養の誠を尽くす様のを、孝子の本意というのである。 こういう根性を持った武士は、譬え主君をとり、奉公の身となっても、忠義の道をよく弁えるから、主君が御威勢盛んな時は申すに及ばず、譬え御身の上に不慮の事があって難儀千万となられた時にも、猶以って誠の忠を励まし、味方百騎が十騎に、十騎が一騎になる迄も御側を離れず、幾度となく敵の矢面に立ちふさがって身命を省みないという様な軍忠を勤めるものである。 理由は、親と主と孝と忠という名前の変わるだけであって、心の信に二つはないからである。 譬え親へこそ不孝だけれども、主君への忠貞は格別であるという様な事は、決して無い道理であるに決まっている!(須保孫右衛門角長、注・強引だなぁ・・。) 家に在って親に不孝の子は、外へ出て主君を取り、奉公する事になったとしても、(以下、自信が無いので原文) |
武士たらん者は、義・不義の二つをとくと会得し、専ら義を務めて不義の行跡を慎むべきであるとさえ覚悟していれば、武士道は立つものである。義、不義とは善悪の二つであって、義は即、善。不義は即、悪である。
凡そ人として善悪、、義不義の弁えが無いという事は無いけれども、人に義を行い、義に進む事は窮屈で面倒に思われ、不義を行い、悪を為す事は面白く、楽である事から、ひたすら不義・悪事の方へのみ流されて、義を行い、善に進む事は嫌になるのである。 知的な障害などがあって、善悪・義不義の弁えが出来無いというなら別だが、自分で不義の悪事であると自覚していながら、義理を違えて不義を行うというのは武士の意地にあらず、近頃未練の至りである。 堪忍情が薄いと言えば、少しは聞こえはいいが、深層心理の奥底を辿れば、結局それは臆病が原因で起こる不義だと分析して良いであろう。 且つ又、義を行うのに三パターンの状況を想定する事が出来る。 二パターン目として、 三パターン目として、先に金を預った事を、妻子や召使の中の誰か一人でも知っているという場合、その人物が自分の事をどう思うだろうか。後日訴えられでもしたら堪らない・・・とばかりに、其の金を返す様な人間は、「人を恥じて義を行う人」というのである。 惣じて義を行う修行の心得というものは、自分の妻子、召使をはじめ、親しい人間が自分の事をどう思うかという事を第一に考え慎み、そこから対象を広げて他人の譏り嘲りを気に掛けて、不義を為さず、義を行う様に心掛けていれば、自然とそれが癖になって、後々は義に随う事を好み、不義を嫌う様な意地合い、心だてとなっていくのは必定である。 扨亦、武勇の道に於いても、戦場に臨み、生まれつきの勇者というのは、どれ程矢や銃弾の激しく飛来する場所をも何とも思わず、忠と義の二つを兼ね備える其の身を的になして進みゆき、心の勇気は表面に顕れるものであるから、その行動の見事さを、兎角賞賛される様な事もあるものだ。 又、人によっては、 先の生まれつきの勇者と較べては遥かに劣る様ではあるけれども、この者だって何度もそうした経験を積めば、後々は冷静沈着に行動できる様になり、生まれつきの勇者にもさして劣らない様な、武備誉れの剛の武士とならない訳はない。 人が、 |
武士道の学問というものは、「内心に道を修し、外かたちに法をたもつ」という事以外にはない。
心に道を修するというのは、武士道正義正法の理に従って事を行い、毛頭も不義邪道の方向へ行かない様心得る事である。 扨又、形に法を保つという事には、二法四段の仔細がある。 先ず士法というのは、朝夕手足を洗い風呂に入って体を清潔にし、毎日早朝に髪を結い、節々月額をも致し、時節に応じた礼服を着用し、刀・脇差なんかは申すに及ばず、たとい寒中たりとも腰に扇子を絶やさず、客の応対をする時は、先方の尊卑に随って相当の礼儀を盡くし、余計な言動を慎み、たとい一椀の飯を食い、一服の茶をすするにしても、其の仕草が拙くならない様にと油断無く是を嗜み、自分が奉公人であるならば、非番休息の時にボケーッとしていないで、本でも読んで物を憶え、その他武家の古實古法に至る迄、是を心に懸け、行住坐臥の行儀作法も、 次に兵法というのは、如何に士法上で「言う事無し」であっても、武士として兵員の用い方に不練達であってはいけないので、腰刀を抜いての勝負の仕方を覚える事を以って兵法の最初と致し、或いは鑓を使い、馬に乗り、弓を射、射撃訓練をし、其の他何でも武藝とさえあれば好きになって稽古をし、手錬を極めて其の身の覚悟とする事である。(兵員の用い方の方はどうなったのだ?) 前述の「士法兵法」の二段の修行さえ調えば、常法に於いては何の不足も無くなるので、大躰の人の目には、 然りと雖も、武士は元々「變の役人」である。 次に「戦法」というのは、敵と遭遇して戦闘を開始する時、味方の配置や攻撃のタイミングなどが図に当った時は勝利を得、それを誤った時には勝利を失い、敗北するのは定まり事である。 この「常法變法」四段の修行成就の武士を指して、「上品の侍」と言うのである。 爰の所を能く分別し、仮にも武士とあるからには「士法兵法」は言うに及ばず、「軍法戦法」の奥秘に至る迄是を修行し、及ばぬ迄も、 |
上古の武士は、「弓馬」といって大身小身共に弓を射、馬に乗ることを以って武藝の最上としたという。
近代(今からすりゃあ近世だけど、当時としちゃあ近代ね。)の武士は、太刀、鎗、扨は馬術を肝要だと思って心懸け、稽古をしている様だ。 就中、小身の武士は馬を能く習い、譬え滅茶苦茶身に過ぎた高級馬、又は人に慣れない馬と雖も、これを完全に乗りこなす様でありたいものである。 理由を言うと、乗り心地が良くて姿形も良い馬というのは、第一世間に稀である。 其の身が馬術にさえ長けておれば、 惣じて馬の毛の色・疵を細かく吟味する等というのは、大身の武士のする事であって、小身の武士は自分の気に入らぬ毛の色の馬でも厭わず、毛に疵があって人が嫌がる馬だって、さのみ嫌う事無く、馬そのものさえ良ければ買い求めてウチに繋いでおくという心得でいるべきだ。 昔、信州村上家の侍大将に、額岩寺といって三百騎ばかりを率いる弓矢巧者の武士がいた。 そんな風であるから、甲州武田信玄の家中に於いても、 且つ又、武士が戦場に乗り入れる為の馬は、中の上かん(「上かん」とは「健康で勘が鋭い」という意味なのだとか)にして、丈は一寸〜三寸迄。頭持ちは中頭にて、ともは中のとも。 理由を言うと、四足の筋肉を伸ばしてしまった馬は、山の長い斜面を歩かせたり、或いは川を渡す時に早い段階で草臥れて役に立たず、尾の筋肉を伸ばした(切ったんじゃないのか?との声も有ろうが、「切った」と「伸ばした」は同じ意味と考えられるのだそうだ。)馬は、溝、掘り切り等を乗り越える時に、決まって「尻がい(「鞦」と書き、馬に荷車を牽かせる時に用いる馬具。)」が外れ易い。 且つ又、武士の身で馬が好きなのは非常に良い事であるけれども、これにも善悪の二つがある。 其の上、馬上にて敵と遭遇して戦闘を繰り広げる場合、次第によっては馬も深手を負って命を落とす様な事も無い訳では無い。 今時の馬好きというのは、90%の人間が持て余す様な癖の強い馬等を、安価で買い求めて其の癖を矯正し、或いは田舎の産の馬等を見出しては是を乗り付け、手入れをして所有しておき、買いたいという者があれば高額で売り付ける事を本意としているから、いつもいつも良い馬を繋いでおく事が出来無いのである。 |
忠孝の二つの道は、あながち武士の身の上ばかりに限った事でなく、農工商の三民の上に於いても、父子主従の交わりには忠孝の道を盡くすより他に方法は無い。
だが、百姓・町人・職人等の上には、「平生の行儀作法を正す」という考え方を二の次にして、譬えば子供の立場にある者・家人の立場にある者が親と同座する場合でも、胡座をかいて腕組をし、物を言うのにも手を突く事も無く、下に座っている親に、立ちながら物を言う・・・。 武士道に於いては、譬え如何程心に忠孝の道を守っていても、形に礼儀を盡くさなければ、忠孝の道に適っているとは全く(ママ)言えない。 但し、主君の御事は申すに及ばず、両親に對しても、目の前に於いての慮外・緩怠とある様な状態では、武士道を立てるなんて事はとてもではないが出来る事ではない。 主・親の目通りを離れ、陰うしろに於いても、聊かの疎略もする事無く、陰日向の無いのを以って、武士の忠孝と言えるのである。 例えば何処に泊まって寝ようとも、主君の御座に方へは間違っても足を向けず、鎗・長刀を懸け置くのにも、切っ先を差し向けぬ様に注意し、其の他主君の御噂等を耳にするか、又は自分の口より言葉にする時は、寝転んでいても起き上がり、平座で居ても居直る様な行儀作法をこそ武士の本意とすべきところを、主君の御座の方と知りながらも脛を差し向け、寝っ転がりながら主君の御噂をしたり、或いは、親からの自筆の手紙などを受取っても、是を一度頭上に戴いてから拝見・・・等いう事も無く、胡座を組んでいながらも寝っ転がり(?なんじゃそりゃ!「大ひざを組て居ながらもふせり」)披見を遂げて傍らへ投げ抛り、其の手紙で行燈の掃除を(家隷に)申し付ける様な事は、是皆うしろぐらい所存であって、武士の忠孝の本心ではない。 そういう心だての者は義理を知らず、親疎の弁えがないからそうなるのだ。 そんな風であるから、其の裡に主・親の罰を蒙り、何か大きな災いに出合い、武士の冥利に盡きた(武士として羞ずかしいという意味にとるべきか)死に方をするか、譬え生き延びても、生き甲斐が無い様な風情になるか・・。 是に関して、慶長の頃、福島左衛門大夫政則(ママ)の家来に可兒才蔵という武勇の侍あり。 |
主君を持ち、奉公する武士は、諸傍輩の身の上に悪事を見聞しても、陰噂をすまいという嗜みは肝要である。
何故ならば、自分だって聖人君子ではないのだから、長年の内には何かにつけて失敗や心得違いだってするに違いないという遠慮の慎みからである。 就中、其の家中の家老・年寄りなどと言われる、諸侍の座上をも仕る武士であるなら職・禄共に重いのだから、其の人柄・知恵・才覚なども職禄相応にあってこそ然るべきなのに、全然そんな事ないじゃん。等という批判は、理屈の様に聞こえても、畢竟屁理屈である。 理由を言えば、既に天下を知ろし(注・平定?)召される公方将軍家等の御旗本に於いて、加判(公文書に判を押す様な職分)の老中などというのは、其の時代時代で数多居る郡主・城主の中に於いて、専ら其の人柄を御選びになっての事であるのだから、現職で加判の列に至っている程の人の中に、さのみ不器量な人は居らぬ筈である。 國・郡を領地している大名方の家々に於いては、家老・年寄りを勤める程の(家柄の良い)侍は、禄に付き、筋目に付き、家中数多居る侍の中にも、(そんなに恵まれた人間は)数多く居ないものである。 であるから、人選をするといっても、そんなに選択肢は無い訳で、まあ大体人並みに生まれついたのを幸に、筋目と禄との二つが揃っていれば、先ず家老・年寄りの列にも加えられるだろうという状態であるから、段々仕事にも慣れ、功績も増えていって、後々は役に立つ程度には育つだろうという主君の思惑から、其の役職に就かせられるという様な事もなくてはならないのである。 そういう家老・年寄りだと、自分の役職に對して、能力的にちと役不足という事も起こらざるを得ない。 何故ならば、草木の類いでも良く花咲き、実のなる年もあり、花・実共に不出来な年もある様に、人間だって、利発な親の子とは思えぬ生まれ付きもあり、又は親を凌ぐ様な能力を持って生まれる事もあるというのは、古今の世に普通にある事である。 主君に人を見る目が無いという訳ではないけれども、其の者の先祖代々の忠功を思って取り立てているのであり、家柄を重視して重い役職の列に就かせるというのは御尤もの至りである。 然る上は、そういう家老・年寄りの口から、聞き苦しく、不条理な事を言われて、これは聞き捨てならぬ・・・と思う様な事もあるかもしれないが、こちらの言い分を差し控え、当り障りの無い様に返答しておくべきである。 何故なら、それが主君の言葉であったなら、どれ程無理難題を吹っ掛けられても口答えは一切出来無い訳である。 扨又、時の用人等という類いの役人の場合は、あながち筋目・家柄という選考基準も無く、家中の多くの侍の中から、専ら能力の優れた者を選んで仰せ付けられるので、どこかヌケているなんという者は居ない筈である。 然れども、長く時間をかけて使おうとの御主君の計画がある場合、年齢微弱の者にも御側向きの諸事の御用を仰せ付けられ差置く様な事も有り得る。 どれ程利発な生まれ付きの者でも、仕事の仕様が悪いとか、人間出来てねぇなとか、自慢が多いなとか、目立ちたがるとか、自分は他人とは違う特別な人間なんだと謂わんばかりの言動・行動が多いとか、同性相手に喋ってる時は物静かなくせに、異性相手に喋る時はいきなりハイテンションになって、普段言わない様なギャグを言ってみたりして、それも言った後、周囲の反応を覗ったりする。ああ、畜生が抜け切れてねぇなとか・・・は、若いからだと了簡すれば済む話である。 惣じて家老・年寄り・用人等という類いの諸役人は、主君が御選びになって其の役職に就いているのであるから、その諸役人の事を悪く言う時は、主君を誹るも同然である。 其の上、何かの時にそうした人達に頼まなくては処理出来無い事等が出来した場合、機嫌をとって手を付いて、膝を屈めて、「偏に頼入存る」等と言わねばならなくなる事も無いとは言えない。 今の今迄、陰で謗り・嘲っていた口をすぼめて、如何に用があるからといっても、(コロコロ態度を変えておべっかを使ったりするのは)武士たる者の口にすべき言葉ではないとの遠慮がなくてはならない。 |
大身小身共に、武士の役儀というのは、陣と普請の兩役である。
天下戦国の時は、明けても暮れても爰の陣、あそこの軍という事で、一日たりとも武士としては身を安く置く事は出来無い。 陣とくれば普請は付き物で、爰の要害、かしこの掘り切り、扨は「取手陣城付城」等といって、昼夜を限らぬ急ぎの普請に、上下の骨折り辛労というのは浅からぬものがある。 治世に於いては、陣というものが無いので、当然普請もなくなる。 扨、平時の番役・供役・使役であっても、自分の果たすべき作業を勤める事さえ大変な難儀だと思わせる病気・・・なのか何なのか知らないが、欠勤届けなどを出して、同役相番の者に自分の抜けた穴のヘルプを頼んで、人に苦労をかけている事を何とも思わないのが居る。 或いは、遠方への出張などの場合、出張中にかかる費用や出張中の疲労などを嫌って仮病を起こし、その出費・疲労を人に押し付けて其の場凌ぎにトンズラを決めておいて、暫くして、すっとぼけて出勤し、諸傍輩の顰蹙をも憚る事が無いとか。 他にも、ちょっとそこ迄の供使いに行くのにも、日に二度出るかどうか。 譬えどんなに大変な勤めだといっても、畳の上の勤番。 理由を言うと、戦国に生まれた武士は、毎度軍に罷り立って、夏の炎天下にも具足の上から焼き付けられ、冬の寒風は具足の隙間から吹き込んできてどうしょもない・・・といっても、その暑さ寒さを遁れ凌ぐすべもなし。 これを踏まえてさえいれば、治世の番役・供役・使役なんてのは、言ってみても楽な仕事である。 武門に生を受けたからには、昼夜甲冑を放さず、山野海岸を棲み家とでもするくらいの根性がなくてはダメなのに、天下静謐の時代に生まれたがゆえに、身分の高いのも卑しいのも、夏は蚊帳を垂れて冬は夜着蒲団に巻かれて、朝夕、「ばっか食い」をして安楽に渡世しようなどというのは、とんでもない事だ。 これについて、甲州武田信玄の家中に弓矢巧者の誉れ高い、馬場美濃という侍は、「戦場常在」という四文字を書いて、壁に懸け置き、平生の受用としたと言い伝えられている事を付記する。 |
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