切腹 |
実録・切腹 |
慶応四年正月に起こった、所謂「神戸事件」の責任を取る為切腹した岡山藩士、滝善三郎正信の切腹の様子が、当時の英国駐日公使館書記官・ミットフォードの著書、「旧日本の物語」に詳しく描写されているので、何はともあれ、そいつを引用してみよう。 |
我々(七人の使節団)は日本側の検視役に先導されて、その寺院の本堂へ招じ入れられた。ここで切腹の儀式が行われる事になっているのである。その儀式は誠に堂々として、忘れ得ぬ光景であった。
(中略)正面の一段高く置かれた仏壇の前には、床から三、四寸高くなっている座が設けられている。 心落ち着かない数分が過ぎ、軈て逞しい三十二歳になる偉丈夫滝善三郎、が、静々と本堂に歩を運んできた。 (中略)軈て「介錯」を左に従えて、滝善三郎はやおら日本人検視役の方へ進み出た。 そこで、この咎人はゆっくりと威風辺りを払う態度で切腹の高座に上り、正面の仏壇に二度礼拝をしてから仏壇に背を向け、毛氈の上に正座した。 「拙者は唯一人、無分別にも誤って神戸に於いて外国人に対し、発砲の命を下し、その逃れんとするを見て、再度撃ちかけしめ候。拙者今、その罪を負いて切腹致す。各々方には検視の御役目御苦労に存知候。」 再度の一礼の後、善三郎は麻の裃を帯辺り迄脱ぎ下げ、上半身を露にした。 善三郎はおもむろに、しっかりとした手つきで、前に置かれた短刀をとりあげた。 そして、善三郎はその短刀で左の腹下を深く突き刺し、次いでゆっくりと右側へ引き、そこで刃の向きを変えてやや上方へ切り上げた。 その瞬間、それ迄善三郎のそばにうずくまって、事の次第を細大漏らさず見つめていた「介錯」が立ち上がり、一瞬、空中で剣を構えた。 室内寂として声なく、只我々の目前に有る最早生命を失った肉塊から、どくどくと流れる血潮の恐ろしげな音が聞こえるばかりであった。 「介錯」は低く一礼し、予め用意された白紙で刀を拭い、切腹の座から引き下がった。 |
刑名としての切腹 |
切腹が刑名として使われる様になったのは、江戸時代に入ってからの事である。
無論士分以上の者に適用される刑名であって、農工商は言う迄も無く、足軽にも適用されなかったという。 注意を要するのは、 では何故わざわざ「切腹」を申しつけるのかというと、その罪が武士の本分を辱めない場合に限って、「自分で死なせてやる」。つまり武士の情けというか、寛容な裁きであって、ここ迄が武士の待遇なのである。 ところがこれが、「武士の風上にもおけぬ奴」と言われる様な罪を犯しておれば、切腹は赦されず、 但し、必ずしも主君に命ぜられてから切腹するケースばかりではなく、自分で勝手に腹を切ってしまうケースもあった。 例えば何か、バレたらヤバい様な事をしてしまい、それが本当にバレた場合。 後述する「追い腹」も、そんな「自分で勝手に腹を切る」ケースのひとつと言える。 また、自分でさっさと腹を切ってしまわなければならない様な状況になっても当人が切腹しない、或いは、縁者中の誰かがヤバイ事をした時、当人は「大した事は無い」と思っていても、親類縁者が相談の上、一族に累が及ばぬ様(主君から御咎めを蒙らぬ様)、一族が寄ってたかって、上からの詮議を受ける前に無理矢理腹を切らせる場合が有る。 こんなケースも有る。 言い含められた者達は、帰って親類一同と相談の上、容疑者に切腹の内意が有った事を告げるのだろう。 |
切腹の作法 |
切腹は飽く迄「斬首」が本刑であるところから、時代が進むにつれ介錯人の腕前に重点が置かれる様になり、作法そのものも五月蝿くなってくるのである。
切腹の作法が形式化したのは、江戸も中期にさしかかる頃であるという。 切腹の沙汰は、普通夜中に本人に通知される。 受刑者が大名家等に預けられている場合、預かり人の方では直ぐに介錯人を選ぶ。 介錯人は二人(正介錯人と副介錯人。正介錯人が怖気づいたりした場合に備える。)亦は三人。 介錯人は切腹を援け、刑場を護るのが役目であるから、必ず腕の立つ者が選ばれ、麻裃に大小を差して務める。 前述したミッドフォードの著書にある記述とは少々違うが、切腹の場は、先ず砂を敷き、その上に畳二枚を敷いて切腹の場とする。 正式の切腹の場には、牢獄内であろうと預かり人の屋敷であろうと、検使が来る事に変わりはない。 武士が他人の家を訪ねる際、普通は玄関にある刀架に大刀を掛けるか、家の人に預けるか、亦は室内に持って入っても、害意が無い事を示す為大刀を右手に持って入るが、この検使だけは、預かり人の家に入る場合でも両刀を帯びた儘であった。 受刑者は切腹に臨んで沐浴をし、清浄な体で事に臨むが、この時、盥に湯をはるのに、常の如く湯に水を注いで湯をうめない。 先日縁者の葬式に出た時、親戚筋にあたる小父さんが、「故人の体を拭くお湯は、水にお湯を入れて温度を調節するんだ。」と言っていたのを聞いて吃驚した事がある。 切腹の作法から来たものか、逆にそうした作法を、切腹の方が取り入れたものか・・。 話が逸れた。扨、切腹人のスタイルは白無地に紋なしの小袖。 切腹の時間が来ると、受刑者は西に向かって座る。 どのタイミングかは定かでないが、この時介錯人は受刑者に対して一礼し、「何の何某で御座る。御安心召され。」 牢屋役人だと、この場合必ず名乗るらしいが、藩によっては名乗らぬ事もあるらしい。 そうこうする間、副介錯人は受刑者が服を脱ぐのを手伝っている。 肩衣をはね、もろ肌を脱いで、両袖を膝の下に敷くのは、ミッドフォードの部分で書いた様に、切腹の痛みで後方に仰け反らぬ用心からである。 副介錯人が、受刑者の服を脱がせ終わると「コンコン」と咳をする。 受刑者はそれで腹を切るが、はじめの裡は受刑者が腹を切ってから介錯刀が振り下ろされたものであるが、それがだんだん、刃を腹にあてるかあてないか位で首を落としてしまったり、酷いのは三宝に手を伸ばして前かがみになったところで首をおとしてしまったり、挙句の果てには、予め紙で巻いた扇子が三宝の上に用意されていて、受刑者がその扇子を腹にあてた時に刀を振り下ろすという、どうにも変な事になってくるが、これを「扇腹」という。 ※切腹の短刀の握り方であるが、右手で柄を握った時の事を想像して欲しい。其の際、拳が下を向く、詰り、親指は柄頭の方を向いていると思うが、多くは拳が上を向く、詰り、親指が腹側を向く様に握るのだという。昭和の前半には切腹の仕方を習慣的に識っている人が多かったらしく、そういう人の証言を根拠にした説である。 また話が飛ぶのだが、赤穂四十七士の話が出た序でに、彼等が一人もまともに切腹しなかったと、断定的に言い切ってしまう資料がある一方、浪士中の十人を預かった毛利家の記録「毛利家乗」に、それに反する記述があるので簡単に紹介しよう。 「しつらえられた切腹の座には畳二枚を敷き、白布の布団をのべ、四方を囲う。 また話しが逸れた。 いずれにせよ、こうなるともう、腹を切らずに首だけ落とされる・・・。 書き漏れたが、お外でやる場合には、受刑者の座る前に穴を掘っておく事がある。 首を刎ねる際、所謂「皮三寸」を残して、首が胸に垂れ下がる様に斬るのを最上とした。 扨、そうして首を刎ねた後は、すぐさま正介錯人か副介錯人、牢屋であれば下役人がその髻を掴んで右膝をついて検使に首を見せるが、この時検使の方へ、首を正面にしては見せない。 首実検を済ませて、「切腹」は終る。 |
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正十文字
江戸初期迄は、十文字に腹を切るのが正法とされた。 やり方であるが、「細川両家記」という本に、会話の一説であるが、次の様な遣り取りがある。 先ず臍の高さの左脇腹に突き立て、真っ直ぐに右脇腹迄裂く。 鉤(鍵?)十文字 左脇腹に刀を突き立て、左手で柄を押して斜めに恥部に向かって切り下げ、刃を転じて今度は右手で右脇腹迄切り上げ、また刃を転じてみぞおち迄切り上げる。 右十文字 左腹の下部に刃を浅く刺し(腸迄届かぬ様)、右腹迄一文字に引いて切っ先を斜めに跳ね上げ、その勢いで左乳下の急所を突く。 左十文字 左脇腹を真っ直ぐ下へ切り下げ、下腹部を右に向かって切る。 名無し 左から右に一文字に切り、一旦抜いた刀をみぞおちに突き刺し、右脇まで切り下げる。 名無し 右の股から真上に切り上げ、左脇腹へ切り下げる。 一文字 江戸中期になると、十文字腹は恨みを残す「遺恨腹」として忌み嫌われた。 やり方もなにもないが、只位置的には、臍の上一寸、亦は臍の下五分であるといい、どちらでもよかった。 変形の一文字には右脇腹から左脇腹に大刀を貫通させ、突き出た切っ先と柄を掴んで前へ押し出す方法があり、「仙道記」の多川八郎がこの方法を用いている。 不破伴作は、左乳下から右脇腹迄一直線に切り下げている。 二文字というのがあるが、赤穂浪士の大石主税(※関連情報)がやったというが、作り話であるという。 三文字は乃木将軍がそうであった。 縦一文字というのもあったらしい。 |
追い腹 |
本来この項目は「作法」の前に入れるべきであろうが、何故そうしなかったのかというと、挿入の仕方がわかんなかったのである。 順番を考えないで作るとこういう事になる。 扨、「追い腹」というのは、殉死の意味であって、「主君のあとを追って腹を切る」事である。 徳川の初期は、「追い腹」の全盛時代である。 「出処進退を誤らぬ武士の心得は追い腹にあり」 だから、死ぬべき立場にある者が死なずにいると、不忠者、臆病者、腰抜け野郎とさんざっぱら罵られる。 将軍家光が死んだ時、家光に愛されていた松平伊豆守、永井信濃守の二人は、他の重臣が多数追い腹を切ったにも関わらず、自分達だけ殉じなかった。 早速落首が人々の口にのぼる。 「伊豆の大豆、豆腐にしてはよけれども、きらず(おから)にしての味の悪さよ」 「出羽に遅れて」とは、家光死去に際して、内田出羽守が腹を切っていたにも関わらず・・・という意味である。 こういう風だから、忠義の追い腹だけではなく、そうした世間の目を恐れての、余儀なき切腹も多かったのである。 殉死三腹 追い腹の動機には三種類あると言われる。 主君と、「念者」と「若衆」の関係、つまり衆道(男色)の関係にあって、その恋心からとか、或いは飽く迄忠義一途な気持ちで、主人と生死を偕にする心でやるのを「義腹」という。 本当は死にたくないのだが、朋輩が殉死するので、自分もひけを取りたくないという意地とか、名誉とか、世間体を気にしてやるのを「論腹」という。 主君に大した恩顧も無く、死ぬべき立場にも無い者が、子孫の栄光や利益を狙ってやるのを「商い腹」という。 しかし時代が進むと、そうした殉死も影をひそめる。 (この「商い腹」という概念が出て来たのには、ひとつの元ネタが有るからという。元ネタの書名は失念したが、「商い腹」の概念を持ち出す歴史家・時代小説家の殆どは、此の書に書かれて居る内容を鵜呑みにしているだけの様な節が有る。歴史家の山本博文氏はこの点を指摘して、「自分が史料を調べた限りに於いては、本来死ぬべき立場に無い様な人間が追い腹を切ったケースでも、其の後、遺族に知行の加増が有ったとかいった事実は無い。」という様な事を主張されて居る。随って、自分の死後に遺族の栄達は期待出来ない訳であるから「子孫の栄光や利益を狙って」の追い腹は有り得ないという。 併し乍ら、禁令が出たからといって、直ぐに「追い腹」が改まる筈は無く、寛文八年、宇都宮十一万石の奥平忠昌が死んだ時、奥平家中の杉浦右衛門兵衛が追い腹をやってしまった。(※関連情報) それを知った幕府は、幕府の権威を落とさぬ為例外は赦されぬ。とばかりに、其の子善右衛門と吉十郎の二人を打ち首に、娘聟の奥平五太夫、孫の稲田清兵衛を追放。 それによって「追い腹」はぐっと數が減ってしまったのである。 |
余談 |
どうでもよい事だが、切腹というものが何時頃からあったのかを書いてみる。
そもそも切腹の元祖は誰か、という事がよく取り沙汰される様であるので、其の辺りから攻めてみると、「播磨風土記」にある切腹が一番古い。 其処に記されている切腹の概要はこうである。 従って栄誉ある切腹第1号は女性だという事になるが、これは伝説であって、史実ではないらしい。 やや信頼できる記録上の切腹第1号は、平安中期の武将兼歌人の藤原保昌の弟、藤原保輔である。 自殺の方法として切腹が広く普及したのは、平安末期頃である。 当初は勿論作法などなかった。 義経の兄、悪源太義平は、寺に潜伏している処を敵方に発見され、捕まって京都に送られ、六条河原で斬首されたが、その間充分に自刃する暇があったにも関らず、それをせずに縄目の恥を受けている。 「太平記」の村上義光が割腹する時、「我が自刃するを見て、汝等死す時の作法とせよ!」と叫んで、腹一文字にかき切って、掴み出した腸を投げつけたとあるが、わざわざ「作法とせよ」といっていることからも、当時切腹の作法が普及していなかったであろう事を思わせる。 と、余談はこんなところだろうか。 何にせよ切腹とは、正しく行われる限りに於いては、武士が自らの罪を償い、過去を謝罪し、不名誉を免れ、朋友を救い、自らの誠実さを証明する方法であったのである。 (了) |
切腹関連書籍
時代劇を斬る(時代考証家が時代劇を検証)
切腹(431人の切腹事例)
時代風俗考証事典〔2001年〕新(どちらかというと時代考証本か)
江戸時代の国家・法・社会(文字通り江戸期の諸事情を網羅)
日本人はなぜ切腹するのか(民俗学的見地から検証)
切腹の歴史(在庫無くて古本で探すしかないかも)
切腹の話(同上)
切腹論考(切腹の話ばかりじゃないみたい)
列島の文化史(11)(「戦乱切腹の起源」なる項目アリ)
「江戸」の精神史(在庫無いかも)
(必ずしも管理人が実際に内容を読んだ上でのオススメという訳ではありません) |