隼人の首を携え、一度は宇都宮に立ち帰ろうとした源八らであったが、
「 覚
奥平源八 同 伝蔵 夏目外記 右三人之者御尋之儀ニ候間、早々罷出可申候。尤宿仕候者有之候ハ、急度可申出候。」 (外記は源八の外伯父)
という幕府の布達が有る事を知り、隼人の首を若党へ託して自分は江戸へ戻り、老中伊井掃部頭直澄の屋敷へ出頭した結果、死一等は免ぜられたが、伊豆大島へ遠島に処せられた。
「語れ聞こ浄瑠璃坂の敵討ち、さてもそののち流されにけり」 当時の落首である。
伊豆へ流されて六年後、天樹院(千姫)十三回忌追善法要の際に赦免されて戻った源八は、近江国彦根藩三十五万石の井伊家に二百石で召抱えられた。 初めに自首した時の源八の態度に、老中井伊掃部頭直澄が感服した為という。
閲覧者様からの情報。
源八ら首魁は井伊掃部頭に引き取られたが、その他の赦免後に関しては、大内、武石、川股の3人は稲葉美濃守にそれぞれ300石で召抱えられた。平野左門、桑名頼母、後藤安右衛門は松浦肥前守に引き取られた。左門は奥平家の時と同様に600石を給された。頼母は分からなかったが、安右衛門を養子としたらしい。もともと、頼母の甥だそうです。
これで終わったかに見える仇討ちですが、実はオマケが在りました。寛文12年4月26日夜、阿部伊予守の家臣・本多次郎左衛門(1500石)、瀬兵衛父子と松平下総守の家臣・奥平源四郎(1000石)、弥市郎父子の4人を首魁とする総勢28名が源八の同志・菅沼治太夫、上曽根甚五右衛門の2人を襲撃した。隼人の叔父父子である、という。肝心の源八たちは大島に流されており、その腹いせか、こちらを狙うしかなかった。
この4人はこの後、隠岐島へ流されたらしい。 |