浄瑠璃坂仇討
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私が子供の頃から何かにつけて通ってきた通り沿いに、「興禅寺」という寺がある。
無論、子供の頃はそんな寺に興味はなかった。

しかし長じて歴史に興味を持つ様になると、其の寺の門前に、「史跡・浄瑠璃坂の仇討」と、看板が出ているのが目に入る様になった。

考えてみれば、其の寺の立地は不自然である。
駅のそばと言ってもよい位置にある為、車の往来激しく、周囲は商店街の様相を呈し、何故ポツンと其の寺のみ地上げもされずに残っているのか不思議ではあったが、成る程史跡であったから残されていたのだ。

そしてこれがまた、地元のエピソードにしちゃあ、案外と有名な事件であった事を、のちの調べで知った。

地元で起こったこの事件は、武士の意気地を身近に感じさせてくれる数尠ない事例である。(他地域の方にはそんな感慨もないでしょうから、読んでてつまんないかも?)

事件の発端

寛文八年(1668)二月二十九日、下野宇都宮十一万石の城主、奥平美作守忠昌が死去。
その葬儀が、三月二日に城下の興禅寺で執り行われた。

奥平家千石の重臣(一説に奥役)、奥平内蔵之允(内蔵介)は病気の為葬儀に参列出来ず、代わりに嫡男の源八(十六歳)を名代として参列させた。

それを、かねて内蔵之允と不仲であった家老、奥平隼人(知行二千石)が、
「日頃武士に不要の生学問が過ぎるゆえ、病気になるのだ。」
と蔑んだので、源八は直ちに帰宅。病に伏せる父を連れて葬儀の場へ戻った。

ここで刃傷事件が起こる事になるのだが、其の原因としては、一説に席次の論争から、また一説に位牌の文字の事からともいうが、柴田錬三郎氏の作品中では、張り紙の「入室」という文字の読み方で。としている。

私は参考文献として、氏の小説の他に二つの資料を元にして書いているが、其の内一冊にも同様の説が挙げられている。
しかしながらこの事件の記録は、江戸三大仇討とされながらも意外と尠ないらしく、「徳川幕府年録」「日本武士鑑」「父讐宇都宮物語」「鳩巣小説」「紫の一本」等の資料はあるが、いずれも概略的で、細部の原因などを知る事が出来るほどの記録ではないらしいので、「入室」の説にしても柴錬氏の創作を、私が資料の一つとする文献の著者が鵜呑みにした可能性もあり、信憑性は決して高いとは言えないと思うのだが、参考迄に述べてみると、「入室」の札が貼ってあるのを何と仮名をふればよいか、という議論で、或る人は「にふしつ」、或る人は「じゅしつ」と主張するのを、病をおして列席した内蔵之允が制し、「入室とは宮方、摂家、公達、門跡の入院を称する名称故、当家等では不相応の言葉だが、仏家の慣習で・・・」にっしつと読むのだ。と訂正した。

それを聞いた家老・隼人が、よせばいいのに、
「古書漁りで風邪を引くのも満更無駄ではない。流石は坊主勝り。」
と嘲った。
さあ、武士の意気地である。
「武士をつかまえて、坊主勝りとは何事か!」
と、内蔵之允は脇差を抜いて斬りかかった。

ここで更に説が分かれるが、双方抜き合わせて一座が騒然となった時、居合わせた大力の兵藤玄蕃(千二百石)が引分けたという説。
この説に拠れば、玄蕃に動きを封じられた内蔵之允は、隼人の弟、主馬介(主馬允=しゅめのじょう)に、尻から股へ斬りつけられたという。

亦、もう一説の方はと言えば、いきなり斬りつけた内蔵之允だが、病の為力が入らず、一発目を外してしまった。
その時寺の床に刃が当ったが、其の時の跡が今も寺には残っているという。(一遍見てみたいが、その為だけに行くのも恥ずかしいな・・。)
一発目を外した内蔵之允を、後ろから隼人の弟、主馬介が、
「義父上、御静まりなされ!兄上、退散!」
と押さえこんだ(内蔵之允の娘は主馬介に嫁いだという)処、気を取り直した隼人が抜刀。内蔵之允の右肩から袈裟懸けに斬り下ろした。とある。

いずれにせよ、其の晩内蔵之允は憤激の切腹を遂げた。

閲覧者様からの情報。

「長篠戦史 第二分冊 山家三方衆」にある説明ではいくつか異なってます。
まず、度重なる面罵に堪えかねた内蔵允が斬りかったまでは同じでもこのあとが別。隼人がすかさず斬りつけ、主馬允正俊も兄・隼人に加勢し一太刀を浴びせた、とあります。何か一方的にやられた内蔵允という印象です。この後を大身衆・兵藤玄蕃が仲裁、双方をそれぞれの親戚に預けさせてます。
また、内蔵允自刃の日が、4月22日となってました。他に資料を知らない為、いずれが正しいかは分かりません。
"破傷風による急逝"という体裁を取り繕ってはみたが、藩中の騒ぎは収拾できずそこで玄蕃が藩主・昌能に隼人への処罰を上訴したそうです。
ところが、肝心の昌能が隼人贔屓たったらしく玄蕃の案を取り下げ「公儀の内意を伺う」という形を採り、使者も派遣した。
これがホントに形ばかりで、実際は"事故の処分は勝手たるべし。"の御墨付きをもらいに行った様なものだった。そのために隼人方は親類縁者などあらゆる手を尽くして、それを実現させるべく奔走した。

間の悪いもう一つの事件

扨、この刃傷沙汰を起こした両家の処置に、藩は困じ果てた。
内蔵之允、隼人の両人は、幕府にも名を知られた者である。
迚もの事に、この刃傷事件は藩内だけで隠し遂せなかった。
それゆえ新藩主大膳亮昌能の一存では決定しかねたのである。

幕府に御伺いを立ててみれば、
「内蔵之允は乱心につき死に損。隼人の処分は藩主の了簡次第」
との事であったので、藩としては、隼人及び其の父大学は領地召し放しの上改易。
内蔵之允の嫡子源八も追放処分とした。

双方の親族達はその裁断に不満であるとて、その殆どが暇を乞うて離散してしまった。
待ってましたとばかりに幕府は、奥平家を宇都宮十一万石から出羽山形九万石に転封してしまった。
家臣多数が離散する等、当主大膳亮昌能の統馭能力の未熟。とでもいうのだろう。

実はこの刃傷事件と平行して奥平藩では、今回の転封を本当の意味で決定的にしてしまった、或る事件を起こしている。

といっても何の事はない、先主忠昌に対する追い腹が出たというだけの事であるが。(追い腹を切ったのは杉浦右衛門兵衛)

だが、間が悪かった。
幕府の追い腹禁止令が出たのは、その僅か五年前であったのだ。

さあ武家諸法度の厳守に力を入れる幕府である。
杉浦右衛門兵衛への罰として、其の子善右衛門と吉十郎の二人を打ち首。
娘聟の奥平五太夫
その後松平隠岐守家へ仕官)、同じく伊与田瀬兵衛(父・弥五左衛門と偕に、生涯を牢人で閉じた。)、孫に当る稲田清兵衛を追放処分。
そして其の上、奥平藩を山形に転封したという訳だ。
(追い腹については、
「武家の生活」中「切腹」の項目で採りあげ、説明する予定。簡単に言えば、主君などが死んだ後を追う、殉死。)

さて、当コンテンツは武士道の考え方の一つとして「仇討」を採りあげるだけであって、殊更当時の「追い腹禁止令」等の政策を考証する性格のものではない。
だが、この「追い腹事件」に関して、先の刃傷事件を起こした内蔵之允と隼人の二人のした遣り取りが、「武士道様々」を考えさせる好例として面白いので挙げておく。
断っておくが、これは柴田錬三郎氏の創作である可能性がある。

そもそも内蔵之允は太平の世に於ける武士道の吟味に勤め、典礼に関する職務に喧しく、行住坐臥の行儀作法を重んじるタイプ。
対して隼人は、戦国殺伐の気風をうけた猛者タイプであった。

それが杉浦右衛門兵衛の殉死の報に接するや、先ず内蔵之允が
「たわけた事を!」
と吐き捨てた。

それを聞き咎めた隼人が、
「何がたわけか。追い腹は武士の大義の顕れである。戦場馬前の討ち死に能わざれば、死出の御供をして平素の知遇に報ゆるのこそ、臣たる者の忠義の表彰である!。」
と返す。以後、

「追い腹は五年前よりかたく止められておる。貴公はあの公令に、殉死あらば亡主の不覚悟たるべし。と極言せられてあったを、よも御忘れか。右衛門の追い腹が江戸に聞こえたならば、如何なる大事となるか知れぬではないか。」

「追い腹禁止は、名を貪り忠を衒う商い腹(あきないばら=「切腹」の項参照。まだ書いてないけど。)の弊を除く為のもの。主を慕う真情より死出の御供をする忠臣を、よも公儀が咎めようとは考えられぬ。」

「否、幕府が令を天下に布いたは、一つの例外も赦さぬ為。一つの例外を黙認する事によって政道は崩れる。幕府が右衛門の追い腹を、藩主の懈怠として糾明した時、申し開きの余地は無い。わしはそれを憂えるのであって、右衛門の真情をいささかも疑うものではない。が、若しこの事によって御嗣子昌能様が御咎めを蒙られるが様な事あらば、右衛門が殉死は却って不忠極まる軽挙と譏られても弁解の致し様があるまい。」

「いいや、右衛門が追い腹こそ、我が藩に於ける臣下の帰服厚き証を天下に示す、天晴れ誇るべき振る舞いである。」

と、ケンカにならんばかりであったという。
まさしく「あれも武士道、これも武士道」である。
一概に「武士道とは斯く在る可き」とは断じ難いという事を示す好例として挙げた。

閲覧者様からの情報。
「だいたい昌能が右衛門兵衛に"何だ。まだ、生きとったのか?"と言ったの、言わないだの。これを恥じ入っての殉死だという話です。」

経過

内蔵之允の嫡子源八と、宿敵隼人は双方改易となったが、隼人は江戸に出て旗本大久保助右衛門方に身を寄せ、源八は下総関宿四万二千石の久世大和守広之の元に身を寄せた。
改易になったにしては、贅沢なものである。

この頃から、源八らが隼人を討たんと虎視眈々狙っていると言う風聞が立つ様になる。

隼人の弟主馬介は、奥平左馬介という老臣の養子となっていた為(奥平内蔵之允の女を嫁に貰っていたとしても、それとは別に。)、隼人と共に罰せられる事も無く、主家に付いて山形に越して来ていたが、反面他家の養子の身分とて、江戸へ出た兄、隼人に助力しようにも、己の意思に委せなかった。

この辺りは判然としないが、一説には源八らの襲撃を怕れる江戸の隼人から、しきりに助成を恃まれた主馬介が、やむを得ず江戸に出る事を嗅ぎつけた源八らが、久世大和の元を離れて下野黒羽に移り、更に北上して出羽国村上郡上ノ山(干し柿が旨いんだ♪此処の)近郷藤吾村の松原迄進出し、其処で主馬介ら一族主従三十余人を待ち受け、これを討ったという。
いや、討ったのは事実だろうが、主馬介が南下してきた理由と、下総から出てきた源八が潜伏した下野黒羽だが、その際黒羽藩大関氏に庇護されていたとは考え難いという話なのだが、この辺は煩雑になるので割愛しよう。(んじゃ言うな)

主馬介を討って意気上がる源八らは、其の足で江戸へ出ると、隼人らが潜む大久保助右衛門方へ赴いて、主馬介の首級を添えた果たし状を、その書院に投げ込んだ。

隼人方としても、斯様に露骨に挑発されては現役の旗本屋敷に厄介になっている事は出来ず、市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠頭、戸田七之助屋敷(又はその組同心の共同拝領屋敷)に移った。

鷹匠というのは、将軍の御鷹の飼育・調教に務めた事から、威張り散し、権柄ずくの「御鷹風」を吹かしていた事は知られている。
其の上鷹匠は軍事教練が目的であるから、その居住区も堅固であろう。
更に地形的に坂の上という地の利を考えれば、最早此処は要害と言っても過言ではない。

閲覧者様からの情報

源八党の本拠・黒羽の深沢村からは、常に隼人の動静を確かめるべく活動しており、その預かり先・壬生城下へは"仇侍を置くなら城下を焼き討ちにする"などといった流言飛語も実践したらしい。領主・三浦志摩守は凶事を恐れ、隼人党を信州高島(諏訪因幡守)へ預けた。
一方、隼人党と目される隼人実弟・主馬允正俊は"御咎めなし"の処分を受け主家の転封先・羽州山形に在った。だが、家中での内蔵允への同情は根強く、"隼人憎し"の鬱憤は、ひたすら主馬允1人に集められた。
父兄等に誘われたのかは、よく分からない。単独で居る事の不安とも察せられます。まぁ、いずれにせよ寛文9年7月3日、山形を立退き父兄等との合流を図った。
ところが、この動きも源八党に筒抜けで、羽州上之山において夏目外記、奥平伝蔵、大内、川股、武井らに討たれた。
この主馬允が内蔵允の女婿かは、こちらの文献では判明しませんでした。ただし、主馬允の先代・右馬允が内蔵允の姉妹を妻としてる事なら確認できました。
隼人方は信州高島以降も、武州岩槻城二の丸、江戸四番町と次々に所在を変えることとなっている。これも源八党の嫌がらせによるもの、と伝えてます。
その後、決戦の地となる牛込鷹匠町は戸田七之介屋敷へと移転した。
源八党は、各自偽名、変装して隼人方の所在を常に確かめ互いに連絡を取り合ってた。この時の中心物は桑名頼母、といわれる。
隼人方でも源八の動きを探ろうとするんで、源八党は拠点を数回変えています。
各自の情報を持ち寄り、七之助屋敷の絵図面を引き、計画に具体性を持たせて討論した。こちらは浄瑠璃坂の上のドン突きにあたるらしく、攻め込まれた際には不利も生じる。"ココなら討てる"と勝算を見込める条件にあったようで、ついに源八党は"追い出し策"を止めた。
ココに行き着くまで、また、この先の決行時に至るまでの歳月たるや長いものがあり、生活資金もとうとう欠乏しだした。
これは知人の助力を仰ぐ事になったが、中でも本町の万屋八右衛門から多額の金銀を都合してもらった、とある。
江戸市中でも噂になってたのだろうか。公儀としても御膝下を騒がす源八党の三魁・源八、伝蔵、外記を詮議し、庇う者は処刑する旨の御触れを遅まきながら発布した。

襲撃

寛文十二壬子年二月二日の夜七ツ(三日午前四時)。
小袖の下に鎖帷子を着込み、丸に一文字の合印を背に墨書きした袖無しを羽織った源八側総勢四十名(五十名程とも六十名程とも七十名程とも言われる。)は、鷹匠頭戸田七之助屋敷へと向かった。

一行は屋敷の門前に着くや、花火松明という瞬間点火の松明に火を付け、「火事だ、火事だ!」と騒ぎ立て、驚いた門番が門を開いた瞬間に中に突入した。という説と、掛け矢で門扉を打ち破って乱入したとする説がある。

明け方突入するという戦法はグリンベレーでもよく使ったらしいが、そんな事はどうでもよくて、兎に角眠りの一番深くなる時間帯ではある。
隼人方には即座に混乱が生じ、たちまち十六人程が斬り伏せられた。

暫く闘うが、どうも宿敵隼人らの姿が見えない。
隣屋敷へでも迯げ込んだかと、源八は隣家へ踏み込もうとしたが、
「さりとは狼藉の度が過ぎて非礼。またの機会もなくはないゆえ、ひとまずここは。」
と従兄弟の伝蔵が嗜めて、一時撤退する事とした。

源八らが浄瑠璃坂を下り、牛込御門の前を去りかけた時、何処に居たか隼人が馬に跨り槍をかいこみ、主従三騎、雑兵十四、五人を従えて追って来た。
それを見た源八、願う処の幸いととってかえし、
「おっつまくっつ攻め闘う。或いは斬られて倒るるもあり、押さえて首を掻くもあり。迚も逃れぬところぞと、飛びかかりて引き組み刺し違いて死ぬるもあり。進んで討ちたるる者はあれども、引いて死する者はなし。」(「紫の一本」)

「源八生年十六にて、容顔殊に優れたるに、こぼれかかる前髪は、水松房(みるふさ)の如くなるに、色めく花の振袖は、吹く春風にひらめきて、焚きしめたりし伽羅の香は、敵の袂も匂うらん。差し潜ってはしとど合わせ、押さえて突いては立ち上がり、開くと見れば飛び違い、籬(まがき)の花に戯るる、秋の胡蝶の如く也。」(「紫の一本」)
っとくらあ。
それにしても、「色めく花の振袖は」って・・・・。ホントかよ。

兎に角、其の闘いで源八は隼人を追い詰め、船河原橋西側の大溝に足を滑らせて落ち込んだ隼人を槍で一突き。見事其の首を掻いた。
それで隼人勢は総崩れとなって逃げ散って行った。

閲覧者様からの情報

討ち入りにはどうやらもう1党、存在した。
興禅寺で仲裁に入った大身・兵藤玄蕃の1党20余りの事で、この討ち入りには加わらずに、ただ静観してた。源八党との合意の上なのか、それとも源八党にも黙っての行動だったのかよく分からないが、源八党が仕損じた時には代って隼人を討つつもりだったらしい。そして討ち入りの成功を見届けると、立ち去ってしまった。

元禄赤穂事件に先立つ事、三十年前の出来事であった。

結末

隼人の首を携え、一度は宇都宮に立ち帰ろうとした源八らであったが、

「     覚

   奥平源八
   同 伝蔵
   夏目外記
右三人之者御尋之儀ニ候間、早々罷出可申候。尤宿仕候者有之候ハ、急度可申出候。」
(外記は源八の外伯父)

という幕府の布達が有る事を知り、隼人の首を若党へ託して自分は江戸へ戻り、老中伊井掃部頭直澄の屋敷へ出頭した結果、死一等は免ぜられたが、伊豆大島へ遠島に処せられた。

「語れ聞こ浄瑠璃坂の敵討ち、さてもそののち流されにけり」
当時の落首である。

伊豆へ流されて六年後、天樹院(千姫)十三回忌追善法要の際に赦免されて戻った源八は、近江国彦根藩三十五万石の井伊家に二百石で召抱えられた。
初めに自首した時の源八の態度に、老中井伊掃部頭直澄が感服した為という。

閲覧者様からの情報。

源八ら首魁は井伊掃部頭に引き取られたが、その他の赦免後に関しては、大内、武石、川股の3人は稲葉美濃守にそれぞれ300石で召抱えられた。平野左門、桑名頼母、後藤安右衛門は松浦肥前守に引き取られた。左門は奥平家の時と同様に600石を給された。頼母は分からなかったが、安右衛門を養子としたらしい。もともと、頼母の甥だそうです。

これで終わったかに見える仇討ちですが、実はオマケが在りました。寛文12年4月26日夜、阿部伊予守の家臣・本多次郎左衛門(1500石)、瀬兵衛父子と松平下総守の家臣・奥平源四郎(1000石)、弥市郎父子の4人を首魁とする総勢28名が源八の同志・菅沼治太夫、上曽根甚五右衛門の2人を襲撃した。隼人の叔父父子である、という。肝心の源八たちは大島に流されており、その腹いせか、こちらを狙うしかなかった。

この4人はこの後、隠岐島へ流されたらしい。

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