元禄赤穂事件
   

  コンテンツが多すぎて、何時手ェ付けられるか分かったモンじゃないので、先ず複雑なやつから片付けてしまおう。
 扨々、今更この事件の顛末を此処に書くのも、皆さん既に御承知の事件かと思われますので(私は最近まで知らんかったですけど・・。)ページの無駄でしかなかろうとの判断で、事件自体の流れは簡単に済ませておきまして、事件の起こった原因について、主要な説をずらあっと並べてみたいと思います。先ずは簡単に事件の流れを。

元禄十四年のホワイトデイ。江戸城では勅使院使饗応の儀式の真っ最中。
事もあろうに、その勅使の馳走役播州赤穂藩主浅野内匠守長矩が、いきなりブチ切れて、勅使接待役指添高家筆頭吉良上野介を小さ刀で二回も斬りつけた。
しかも場所は殿中松の廊下。

浅野内匠守は其の日の裡に切腹申し付けられ、其の凶報は、国もとの赤穂藩へもたらされた。

浅野五万三千石は御取り潰し。赤穂城と、藩の江戸屋敷は没収。
長矩の舎弟大学長広は閉門。浅野家親類筋も夫々罰せられた。

しかし相手の吉良には一切御咎めなし。傷も浅く、ピンピンしていた。

浅野の国許赤穂では、今後どうするか評議が行われた。
「我等これより江戸吉良邸に討ち入って、上野介が首級を挙げん。」
「むざむざ城を明渡すは武士の本懐に非ず。この上は篭城し、矢玉の続く限り戦わん。」
「ここは城門前にて腹かっさばき、城受け取りの上使に、朝野家存続の儀、嘆願してみては如何。」

で、結局城を大人しく明渡し、その明渡しのゴタゴタに紛れて、城代家老大石内蔵助良雄が、幕府の目付け役荒木十左衛門と榊原釆女にそっと、長矩の弟大学の取り立てを依頼したにとどまる。

翌年七月なかば、去年以来閉門を命じられていた大学は、元の知行三千石も取り上げられ、永久に広島の浅野本家へ御預けとなった。
内蔵助がっくしであった。

こうなれば是非もない。
その歳の十二月十四日、遂に赤穂浪士総勢四七人は吉良邸に討ち入り、上野介の首を挙げた。

 
そもそもの原因とは
 
浅野内匠守が吉良上野介に斬りかかったのは、そもそもなんでか?

事件から三百年(おお!恰度三百年!)も経つと、元々原因がはっきりしない事だけに、推測や憶測による説がとんでもない数に膨れ上がっているという。

中には荒唐無稽な突拍子も無い説もあるらしいが、そういうのは抜きにして、江戸以来の諸説の裡、検討の対象となり得る有力な説及び一般に広く流布する説について、類型化したものを挙げる。

 

吉良賄賂要求・浅野ケチクソ説

吉良の高家というのは、朝廷からの勅使等の参向に当たって、御馳走役となる大名と打ち合わせをしたり、指示を与える。
大名側は世話になるので、大概は金馬代一枚、金一枚ずつ付け届けするのが常だった。
@浅野内匠守は、事前に進物を送るのは非礼であるとして、勅使饗応の役目終了後、改めて吉良に進物する事を予定していた。だが吉良は進物が事前に届かなかったので腹を立て、浅野に辛く当たった。 A同役であった伊予吉田藩主伊達宗春が三万石なのに、五万石の浅野家より多くの進物を吉良に寄越したので、吉良は浅野に辛く当たった。 B浅野は吉良への進物を賄賂と考え、ビタ一文渡さなかった。 C主君に代わって吉良に進物を手配すべき江戸家老建部喜六、近藤政右衛門らが気が利かなかった。 D饗応代を従来千二百両を要していたにもかかわらず、浅野が勝手に予算を七百両に削った為衝突した。 E浅野が費用節約を徹底し過ぎて饗応が充分でなくなってしまい、吉良の怒りを買った。
Dについて五味康佑氏は、

「長矩は、十七年前の(饗応の)事を考えてみると、天和三年の折には四百両かかっている。それから元禄十年に(馳走役を)勤めた伊藤出雲守に費用を聞き合わせると千二百両使ったという。
そこでその中をとって、七百両ぐらいに見積もればいいだろうと考え、(中略)そもそも天和三年と元禄十四年では貨幣価値が違う。天和三年の四百両は元禄時にはほぼ八百両に相当するので、それを七百両であげるとなると、前の四百両より粗末なものになるわけだ。」

と云っておられる。
加えて「秋の田面」という本によれば、

「惣じて御馳走御用仰せ付けられ候大名は、いずれも世話焼きとして上野介方へ馬代金一枚宛、早速付け届け致し候事、並の格と相成り候処、浅野内蔵守、そのうまれつき至極吝嗇つよくして人の云う事を少しも聞き入れず、江戸家老藤井、安井(上に挙げた名とちがうなぁ・・・?)の両人を呼び出し、申され候には、これまで世話焼きの吉良へ金一枚遣はし候由なれ共、それは無用也。御用の相済みたる上祝儀代わりに差し出すがよろしく、先に持参には及ばずと申され候。家老両名、かねて主人の心底、斯様に金銭出し汚き事を存知居り候間、如何にも左様に遊ばれて然るべく候と答へ候由。」

とある。

吉良嘘吐き説

浅野が馳走役を請け負うに当たり、指添役である吉良に作法上の教えを請う。
しかし天和三年にも、浅野は一度馳走役を務めているので、何から何迄訊かなきゃならん程ではなかったろうに・・・。
@儀式の日に浅野が着用すべき服装について、礼服大紋風折烏帽子と指導すべきところ、吉良が長裃と教えたので、浅野が困った。 A勅使饗応の料裡について、精進日なので精進料理を用意せよと指導すべきところ、それを教えなかった。或いは逆に、精進日でもないのに、精進料理を用意させた。 B勅使の休憩所等の畳について、初め吉良は「畳替えは無用」と指示していたが、直前になて「やっぱ畳替えしろ」との指示を出し、赤穂藩士がパニックった。 C伝奏屋敷(勅使の宿舎)へ墨絵の描かれた屏風を持ち込んだ浅野に対して、「墨絵は勅使に対して非礼」と、吉良が金屏風と取り替えさせた。 D浅野が、登城する勅使を迎える位置について吉良に訊ねたが、「此の期に及んでそんな初歩的な事を訊くか?」となじって且つ教えなかった。 E老中から吉良にもたらされた奉書を、浅野の同役の伊達には見せたが、浅野には見せなかった。
 

吉良、単に嫌な奴説

ジャイアンかコイツは!

@吉良が浅野の頭を扇子で張り飛ばした(何やってんだよ・・・)為、浅野が切れた。 A吉良は若年の頃より高家の職にあり、たかぴー(微妙に古い)になっており、浅野を田舎大名扱いした。 B浅野が勅使饗応の為に旗本・梶川与惣兵衛と打ち合わせをしていたら、それを見た吉良が、「そういう事は私に尋ねよ」と浅野に聞こえるように言った。 C単純に悪人だった吉良は、善良な大名・旗本を陥れる事しばしばであった。 D「堀部弥兵衛金丸私記」には伝奏屋敷にやって来た吉良の機嫌が頗る悪かった旨の記述あり。
ヒステリーでも起こしたか?
 

浅野断りまくり説

吉良の要請を浅野が断りまくった。

@浅野の児小姓で、美少年の日比谷右近を、吉良がホモッ気を出して浅野に「呉れ」と言ったが、浅野は拒否。それはそれで済んだが、後日別のホモッ気のある人が日比谷を所望すると、浅野はあっさりこれを許したので、吉良が意地焼けた。 A浅野の持つ「狂言袴」の茶器を吉良が欲しがったが、浅野が拒否。以下@に同じ。 B吉良が浅野の正室阿久里に横恋慕。吉田兼好にラブレター等を書かせてアタックしたが、当然夫妻はこれを拒否。

(忠臣蔵等の劇の設定と混同した説)

C吉良が赤穂塩の製法を浅野に訊いたが、秘伝であるからと、これを教えなかった。(吉良も地元の三河国幡豆で饗庭(あえば)塩というのを作っていた。) D吉良の饗庭塩と浅野の赤穂塩が市場で競合した為、吉良が自主規制を申し入れたが、浅野が拒否した。 E幕府側用人の柳沢吉保が、塩目当てで赤穂の領有を望み、吉良を通じて浅野に領地返上をさせようとしたが、浅野が拒否した。
 

思想の衝突説

性格や思想上の溝

@寛文三年、幕府の密命で吉良若狭守義冬(吉良の父ちゃん)と吉良が、後西天皇に譲位を強要。霊元天皇の即位を実現させた。尊王思想寄りの浅野が、吉良の行為を不敬として、殿中の刃傷に及んだ。(右翼かあんたは。) A事件当時浅野三十五歳、吉良六十一歳。ジェネレーションギャップで饗応についての意見が分かれた。 Bむっつりタイプの浅野と、「いいやいいや、何とかならぁな」タイプの吉良とでは、性格が合わなかった。 C山鹿流兵法を信奉する浅野と、エリート吉良では、思想が合わなかった。
 

医学的・遺伝学的要因説

びょーいん行ったほーがいーです。

@浅野は連日の接待で体調が優れず、また、「つかえ(一説に疝気)」という持病に当日の天候条件等が影響し、兇行に走った。 A浅野の母方の叔父、内藤忠勝(志摩鳥羽藩主)が増上寺で刃傷事件を起こしている。遺伝か。 B事件以降の、周囲の人間の日記や書簡に、浅野が乱心気味であった旨の記述が出てくる。 C浅野は神経生理的に不安定だった。その上偏頭痛、易怒性、すぐキレる等の要因も関係して大暴れ。 D当時の松の廊下では、日光が格子に遮られて人間に照射される様な構造になっていた為、それにより浅野が光源性発作を起こし、大暴れ。
要は「ポケモン」の光を見てぶっ倒れた子供らと一緒であろうか。
 
その他一気に挙げてみよう! ある場所で、浅野が謡曲「熊野」を謡ったら、それを聞いていた吉良が、けなした。 備中足守藩主・木下公定邸で、茶人・山田宗偏が披露した掛け軸を、吉良が一休筆だと言ったら、浅野が一字一字検討して、「偽モンだね。こりゃ。」 浅野は十七年前にも馳走役の経験があったので、今回は吉良の指南を受ける必要無しと考えていた。 事件後、浅野の尋問を担当した伝八郎の「多門日記」に、浅野の言として、「私の遺恨これあり」とある。
「梶川氏筆記」には、浅野が吉良に斬りかかる時、「此の間の遺恨覚えたるか」と叫びつつ斬りかかったとある。
つまり吉良に対して遺恨を抱いていた。
本件は全くの偶発事件で、事件の原因や背景は一切ない。 浅野が吉良に取りすがって指南を請うたところ、吉良がそれを振り払ったが、その際、吉良の衣服か持ち物が浅野の顔面を直撃した。 浅野は吉良を、幕府にとっての獅子身中の虫と考えて、これを除く為に刃傷に及んだ。 浅野への勅使饗応役の任命は遅くかったわ、京へ出張していた吉良の帰着は遅れるわで、浅野があせってイライラしていた。 そもそも浅野は刃傷事件を起こしていない。
将軍綱吉が浅野を無実の罪で切腹させようと考え、吉良と、旗本梶川与惣兵衛頼照に命令。
与惣兵衛が後ろから浅野を羽交い締めにしているところを、吉良が浅野の小さ刀を奪って迯げた。吉良の額と背中の疵は後から自分で付けた。
 
こう見てくると、どうも浅野内匠守という人物は、総体あんましいい評価を受けていないという意見が多い。

浅野の弟の大学も、旗本に取り立てられた時、朋輩の伊勢貞丈に兄は短気だと漏らしたというし、浅野家が取り潰しになった時、領民が大喜びでパーティーを開いたという伝説も、赤穂にはあるらしい。

四十七士の一人、小野寺十内秀和。彼は穏健な人物だったらしいが、その穏健な彼が妻に宛てた手紙に、
「今の内匠殿に格別御情けには預からず候得共、代々の御主人くるめて百年の報恩・・・・斯様な時にうろつきては家の疵。一門の面汚しも面目無く候故、節に至らば快く死ぬべしと思い究め申し候。」
とある。

あんまし名君ではなかったのだろう・・・。
対して吉良の方はこれは地元じゃ支持率が高かったらしい。
所謂名君であったという。

吉良は名君、浅野は暗君。
おまけに浅野はヒステリーを起こしての兇行。(と思われても仕方が無い・・?)
という見方を取れば、どう考えたって浅野に非がある。
では、その浅野の為に仇討とは、理不尽もいいところだが、さあ、そこで武士の意気地である。

上の小野寺氏の書簡にもある様に、心服した主君の為というよりも、武士の道として斯かる場合は死なねばならぬ。というのである。
そこが四十七士の偉いトコだ。と五味氏も言っておられる。

 
浅野長矩・もう一つの情けないと言われる点
貞享元年八月二十八日に、大老の堀田筑前守正俊を若年寄の稲葉石見守が殺した。
此の場合は御用部屋での刃傷だったが、小刀で堀田の左脇腹を突きえぐった。
堀田は一言、
「石見乱心」
とのみ言っただけで息絶えた。一発である。

又、天明四年三月二十四日、新御番の佐藤善左衛門が若年寄田沼意知を桔梗の間で斬った時は、予め二尺三寸五分の吉広の刀を脇差に拵え直し、初太刀を肩先に斬りつけたが返す刀で腹を突いた。
腹を突いたつもりだったが、力余って田沼の両股にかけて三寸五六分斬ったのだった。
その出血多量で、田沼は死んだ。

この様に、小脇差を使うなら突くのが武芸心得の常識であるという話がある。

仮にも殿中で刃傷に及ぶからには、おのが命も捨て、家は断絶覚悟の筈であるのに、初太刀は吉良の烏帽子に引っかかって斬れず、二太刀を僅かに吉良の肩先へ斬りつけた程度であったというのは情けない。というのである。

扨それはそれで置いておいて、脈絡が無い様だが、次に事件発生以降、この件について交された幾つかの論争について見てみる。

 

四十七士の処分について

ディベイター

期間

荻生徂徠、細井廣澤、幕府高官、諸大名、民衆

元禄十五年十二月〜翌一月

大目付、諸大名、三奉行などは、幕閣に彼等の助命を願ったという。

細井は彼等の行為を義挙と定義したが、荻生は、許可も無く討ち入り、騒動を起こしたのは法に反する。今回彼等を許せば、以降天下の法が立たないと主張。

日光輪王寺の公弁親王は助命論者。将軍綱吉はその反対。

結果は周知の如く切腹。
それに対し、諸大名や民衆は大いに失望。
日本橋高札場の「忠孝を励むべき事」と書かれた高札を塗り潰すという抗議行動も起こった。

 

四十七士は義士か暴徒か?

ディベイター

期間

佐藤直方、朝見絅斎、三宅尚斎、太宰春台、五井蘭州、松宮観山ら

討ち入り直後〜享保期

四十七士処分後の論争。

@、浅野と吉良の刃傷事件は喧嘩か、浅野の一方的な刃傷か。
A、吉良は浅野の仇か。
B、名瀬四十七士は仇討許可願いを出さなかったか。
C、集団で討ち入るのは仇討ではなく、徒党を組んだ暴挙ではないのか。
D、吉良の首を挙げた直後に四十七士は腹を切るべきではなかったか。
等。

直方は、「吉良は浅野の仇ではない。従って彼等の行為は不義である。」と主張。
これに絅斎や三宅観瀾、稲葉迂斎、尚斎が反駁。特に尚斎は、「君臣の義理は目算では図れない。」とした。

徂徠の高弟・春台は、「赤穂城でも吉良邸でも自刃しなかったのは、彼等が義を知らなかったから。」と非難。これには観山、蘭州等が異を唱えた。

 

刃傷の原因に塩が絡むか?

ディベイター

期間

尾崎士郎、渡辺則文、八木哲浩ら

終戦直後〜現在

絡むとする説には否定論者が多いが、絡む説にも概ね以下の三通りの説に分かれる。

@、赤穂の塩と吉良の塩が市場で競合した。
A、吉良や吉良の領民が、赤穂塩の製法を訊ねたが拒否された。
B、幕府側用人・柳沢吉保が吉良を使って、赤穂の塩田を手中に入れようとした。

渡辺は、赤穂の塩の製法の技術導入は比較的容易に出来た事、両地の塩の競合等あり得ない事等を論拠として否定する。

 

吉良は名君か?

ディベイター

期間

尾崎士郎、手嶋復松、大渓紀雄、鈴木悦道、堀川豊弘、佐々木杜太郎ら

終戦後〜現在

吉良の領地であった三州吉良では、住民が吉良に対して敬慕の念を持っており、この地では長く「忠臣蔵」関係の上演がタブーであったという。

しかしおのが領地で名君でも、刃傷事件で過失がなかったかとなると、これは別問題である。
亦、四十七士贔屓の人間の中には、吉良の善政の一事すら認めようとしない向きもある。

 
この他に、四十七士の吉田忠左衛門兼亮の組下の足軽、寺坂吉右衛門が、四十七士が吉良の首を持って泉岳寺に行った時にその姿がなかったので、彼は逃亡したのか否か。というのもある。

とりあえず、ココ迄。

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