東北武家関係写真館 |
続・会津編 |
●武家屋敷敷地内の展示、及び周辺● |
板垣退助率いる西軍に、さんざっぱらやられた「母成峠」。 慰霊碑等が立っており、それを撮影しにわざわざ遠回りしてきて、2〜30分滞在。 充分撮影して会津市内へ出発。 で、後で見直してみたら、撮影失敗して撮れてないんでやんの。 唯一この慰霊碑とは反対方向の駐車場のみ映っていたが、撮影されていたのは凡そ二秒程。 しかも、私の「ありゃ!?」という声しか入ってなかったし。 存分に駐車場を御堪能下さい。 |
上杉謙信所用の采配(と言うのだろうか。)
風水の羅盤の様な方位が記されており、円盤が複数重なった構造。 それらを回転させて方角の組み合わせを作り、吉凶を占ったのか? |
会津松平家初代藩主保科正之が定めた家訓。
政治不可以利害枉道理・・・等十五箇条。 題字は九代藩主容保、本文は家老山川浩による。 |
容保の写真と絵。 |
地べたに車座に座って猥談をする武士。(推定)
(推定するなら説明書き読めよ←私) |
米沢十二代藩主・上杉斉憲。 |
越後の河井継之助 |
会津武家屋敷の壁には、鶴ヶ城を望む方向に穴が穿っており、穴に向けて一回百円の望遠鏡が設置されている。
金が勿体無いので、私は其の穴からカメラを突込み、望遠で撮影した。 (望遠で撮るなら鶴ヶ城行けよ←私) |
会津武家屋敷=家老・西郷頼母邸の再現である。
で、その西郷頼母と、奥さんの千重子。 私の撮影では、手前の銅像が半魚人の様になってしまっているが、頼母の胸像である。 |
福島県矢吹町から移築復元された、旧中畑陣屋。
幕府直参旗本・松平軍次郎の代官所である。 手前は外人の小母ちゃん。 |
のっこみ。
玄関であるが、なんだか、「役所造りになっており・・・。」とか説明があったんだが、なんなんだか。 |
式台のある玄関=のっこみの隣に位置する「中之口」。
脇玄関とも云ふ。 |
中畑陣屋内部。
此処を内庭と称し、入って直ぐに風呂がある。 |
という訳で、風呂の構造図。
読めたら読んでくだはい。 |
実際の風呂。
湯垢らしき痕が付いているが、実際使っていたものだろうか。 後付けの湯垢なら藝が細かい。 特殊効果のプロフェッショナルとして、ハリウッド進出も夢ではないと言える。 |
柱に刀痕が残っているとかいう説明。 |
赤い矢印の下に痕がある。 |
間違って撮影してしまった、弥生時代の展示物。 |
熨斗目長袴というのだろうか。
隣に陣笠も展示されている。 |
鶴ヶ城周辺図。 |
国指定・名勝会津松平氏庭園、「御薬園」。
「この位置から見た御薬園が最も美しいと言われています。」 池を挟んで向こうに見えるのは御茶屋御殿。 |
300年の歴史を誇る、木造萱葺平屋建ての数奇屋・「楽寿亭」内部。
御薬園の池のど真ん中に建っている。 戊辰戦争では、西軍の傷病者の治療所に充てられた。 |
楽寿亭の床の間。 |
床の間に掛かる掛け軸。 |
御茶屋御殿方向から楽寿亭を望む。 |
母成峠から猪苗代方面へ抜ける道。
山が素晴らしかったので撮っただけ。 母成峠で西軍に押され、敗走した東軍は猪苗代へ後退したというが、彼等もこの道を通ったのだろうか。 |
猪苗代湖。
既に夕方であった為、ファインダーを覗いて見える明るさよりも、薄暗く写っていた。 何か物悲しい。 因みに野口英世の生家はこの付近である。 |
会津の怨念 会津人が薩摩(鹿児島)や長門(山口)に恨みを呑む傾向と云うのは、未だに有るらしい。 人によっては、「会津人は長州を恨むが、それを云うなら長州だって関が原では徳川幕府に恨みが有るのだから御互い様」みたいな事を言う様だ。併し、だったらそういう恨みは徳川に向けて下さいとも言える。 扨、会津が長州を恨む余り、どういう事が起こっているのかというと、確か長州の荻市だったかな?其処が会津若松市に対して「仲良くしましょ」と言って来たのに対して、会津は「仲良くしない!」と突っ撥ねる。 慰謝料を貰ったら、会津は長州を赦すだろうか。 大体が、今の会津人が今の長州人に対して慰謝料請求した処で、一体誰が当事者として謝罪し、誰が当事者として赦す事が出来ようか。 兎に角、今の長州人の、誰が悪い訳でもない。是は勿論薩摩にも言える事だ。薩摩といえば、九州人の方々は、かなり性格のいい人が多いんですぞ。本題とは関係無いけど。 「兵卒でも会津での略奪凄まじいものがあったじゃないか」との御意見も御座ろうが、会津兵も自領でかなり酷い事をした部隊があったみたいです。 扨、会津戦争当時、会津では四民あげて戦に臨んだという。 詰まり、上流階級からピラミッド式に下層階級迄の人口は増えていくのであって、底辺層の中の志願・参戦した者の中で、上層部が残した記録に残っているものなど全底辺層の中の何%かでしかないのかも知れない。「農民が名乗りを上げて部隊を組織した」なんと言っても、そういう熱血漢と云うか義士・忠民が居た割合というのは、全人口から視れば大した数ではない・・・という研究もあるのである。 会津の圧政に苦しんだ農民が多かったという話は有名である。それは江戸初期から慢性的に続く財政窮乏のゆえであったのだが。併し、事実農民は苦しんだ。 其の上に、会津藩士の自領の農民に対する仕打ちもある。 今、他県から会津を眺める時、「会津一丸となって薩長に怨恨を抱く」態に見える(それこそ実際の処全体の何%の会津市民がそうした怨恨を抱いているのかは判らないが)が、怨恨を叫ぶ人達の中で、自分の先祖が「薩長を手引きした農民」であった人は居ないのだろうか。 で、恨みの矛先である長州(山口県)の住民に対して会津人が抱いている感情を忖度するに、恐らく「長州人皆敵!」なのではないかと思う。実際、ちょっと私もそういう目で見てしまう処がある。 オヤジさんの怒りも心情的に無理も無いといえば無理も無いが、よく考えたらその人が官軍となって会津侵攻して来た訳じゃ無いのは解る筈だ。 長州の中では、地元の「維新のヒーロー」高杉晋作に対しての批判も有ると云う。 又、木戸孝允に対する怨念も有るらしい。 この事からも、好き勝手に行動した結果、戊辰の悲劇を招く元凶となった人間は、西軍上層部と京都の一部の公卿達、それと調子に乗った参謀クラスでしかなかった事が知れよう。 「会津藩vs長州藩」という新書がある。要旨は、 ま、いいや。百歩譲って長州をゆるすのはいいが、それでは直接に会津城下を蹂躙、城を砲撃して落城させた土佐や薩摩の事は、まだ恨んでもいいのだろうか? 以上。(なんのこっちゃ) |