東北武家関係写真館

 
続々・会津編
 
会津武家屋敷内部
 
西郷頼母邸を再現した屋敷。その門である「四脚表門」。

上級武士のみが出入りを許された門であって、普段は開いていなかった。

 
門のもう片側。

よく、「家格による門構えの相違」等いう図が載っている書物があるが、載っているのは大概大名クラスの家の門であり、そうした資料と見較べてみると、矢張り「両番所」なる、突き出した門番の詰め所態の建造物が付いていない等、見劣りはする。

だが流石に家老級の人物の屋敷だけあって、秋田に現存する武家屋敷の門構えとは比較にならぬ程豪壮な造りであるといえば言える。

 
門を潜って先ず見える表玄関。式台玄関とも言う。

矢張りこれも上級武士のみが通された。

 
式台玄関内部。
出迎えているのは奥方か?
いちいち奥方様が出迎えるものなのだろうか?
表の事には干渉しないのが武家の奥方・・・だった様な気もするが、地域によっては斯様な事もあったのかも。

ところで、上の写真を見てわかる様に、表門から真っ直ぐに玄関に行くのではなく、若干斜めに道がある。更に式台玄関には衝立が。
これは建築様式に風水の名残があるからだろうか。


補足 風水

風水の発祥は中国である。中国の悪鬼(幽霊を中国語で鬼)は直線的にしか進めない。サモ・ハン・キンポーの道士映画等にも「悪鬼は直線的にしか進めない」と云う描写が見られる。
直進して来た悪鬼に入られない為に、家なんかでもそうだが、廟や道観の門前か、門を入ったすぐ突き当たりの所には「影壁」と云う衝立様の壁を建てる。昆明では土塀風(トーピンホン)、福建ではピンホン、台湾では単にピンと云う。其の名残か。
因みにT字路の突き当たりに在る家なんかは、そう云うわけで直進して来た悪鬼にまともにぶつかる事になる。これを除けるのに15〜6世紀からは現代風水でも行われる様に「石敢当」と云う墓石みたいな物を門前とか、下手をすると屋根の上にも立てる様になったらしい。    

 
表庭から御成り御殿を撮影。

藩主や上級武士が音ずれた時以外は使用しなかった。

次の間から書院壱の間迄見通せる。

 
上の写真を建物側面から見た。

次の間という。

折角説明書きが見える様に写しても全然見えない。

 
書院壱の間。

京都西本願寺の黒書院を参考にした構造。

表庭に近いのが次の間。奥にあるのが書院壱の間である。

恐らく身分の低い者が次の間に控えるのであろう。

 
厠を外から見た。

白壁の下は、写真の様に開閉自在になっている。

中にトロッコの様なものが用意してあり、トロッコには砂が敷き詰められている。
大小便は砂の上に落ち、それを係の者が掃除する訳であろう。

猫の便所と一緒である。

 
トロッコのアップ。

なまじドッポンであるより、事故が生じる可能性も低く、衛生的かも知れない。

 
見たまんま手水鉢。
 
厠を広縁から覗く。

奥の方にうっすらと見える便器は、写真館秋田編に掲載の便所とほぼ同じ形状。

便所のみ天井が無く、いきなり屋根裏が見える。

曲者が侵入しない為のセキュリティテクニックだ。

 
これは使者の間だったかな?
 
家老屋敷見取図。
 
槍の間。

表玄関の反対側からの撮影であるが、位置的には玄関式台の隣に位置する部屋で、常に玄関番が二、三人詰めて、緊急事態に直ぐ行動に移れる様、畳の敷き方にも工夫があるという。

 
客待の間。

主人と親しい人のみが通された。

次の表居間と隣合せて繋がっている。

 
表居間。

主人の書斎として使用された。

書院造り。

 
入側。

庭に面して部屋と部屋を繋ぐ廊下。

 
奥二の間に対する次の間。

家族の茶の間として使用。

この部屋で頼母の家族の婦女子は自刃した。

奥に仏壇がある。

 
奥二の間。

婦女子の部屋として使用。

 
奥一の間。 家老の寝室として使用。
ディスプレイは、頼母の寝室で遊ぶ子供達を母親が戒めるというテーマ。
会津武家屋敷の各部屋の庭に面する部分は、雨戸が閉まる様になっている。閉館後は恐らく雨戸を閉めて帰るものと思われるが、雨戸を閉めちゃった後に、
「あ、あの部屋にアレ忘れたから取って来て!」
とか言われた事のある武家屋敷従業員は一人くらい居そうなものだが、雨戸閉めちゃって真っ暗な武家屋敷内を、百円ショップで買った様な弱っちい懐中電灯一つで探し回るのは結構怕いのではないか。(挙句に百円ショップの懐中電灯はすぐ電球が切れる!)
そして目的の部屋がこんなディスプレイを施してある部屋だったら猶更である。
 
浴室を外部から。

家族の使用していた風呂で、竈(かまど。へっついと読んではいけない。)が付いておらず、台所で沸かした湯を入れて使用。

 
窓から風呂ィカメラを突っ込んで撮影。
 
化粧の間。

奥方の身支度部屋。

 
下の子供部屋の説明書き。

かろうじて読めようか。

 
子供部屋ふた間。

内部が暗くてどっちがどっちかわからなくなっている。

 
女中部屋。

十数人の女中の共同部屋。

十数人では最早「ルームメイト」等というイメージではない。

 
女中頭部屋。

女中部屋の隣に位置しているだけに、十数人集まったさしもの女中達も騒ぐに騒げまい。
騒いだら最後、「うるせえよ!」と壁を蹴飛ばされるに相違無い。

この向こう側に、更に「女中頭付き女中部屋」というのがある。

 
奥玄関。

家族の使用した玄関。

家臣は「中の口玄関」という別の玄関を使い、使用人は台所から出入りした。

 
その台所。

これは配膳の間か。

台所とはいえ、普通の家の玄関より余程広い。

 
キッチン用具。

台所は、土間、配膳の間、料理の間の三つで構成されており、これは料理の間であろう。

 
配膳の間から、先の厠付近の鎖の間迄見通せる。

50メートルやそこらあるのではなかろうか。

 
土間。
 
支度部屋だったか。

若党等が詰めるのだったと思う。

番所の隣に位置。

 
中の口玄関から番所を。
 
役人所?
 
門の片側に連なる「片長屋」。

其処に格納されているMY駕籠1号。

 
同じく2号。
 
同じく長屋に割り当てられた、家臣の居宅。

必要最低限の品しか無い。

 
が、ちゃんと火災用のセンサーが付けられているところに、主人・頼母の家臣を想う気持ちが顕れているではないか。
 
西郷頼母一家自刃の様子。
土佐藩士中島信行が入ってくると、この家の婦女子が自刃している。
中の一人の少女が、朦朧とし乍らも中島を見上げて、
「敵兵か、吾が兵か。」
と訊ねると、中島も敵とは言い兼ね、
「吾が兵だ。」
と応えると、その少女は安心したかの様に息絶えた。(だったかな?)
会津戦争中の美談として知られる。
処で、まさか急に話し掛けられるとは思っていなかった薩長土肥軍の中島氏。会津弁で、
「敵兵が?吾が兵が?」
と問い掛けられ、思わず、
「吾が兵ですたい。」
と言ってしまい、大口開けて「あ"!」と思ったりはしなかったのだろうか。
まあ「ですたい」は肥後弁で、土佐弁なら「吾が兵ぜよ」になるんだろうが。
 
土佐藩士中島信行のアップ。

紳士服売り場で海水パンツをはいて、サーフボードでも抱えて、にこやかに斜め上方を見上げていても可笑しくない美男子である。

(土佐側の調べでは中島は参戦して居らず、此の場に居合わせたのは土佐の斥候・中島茶太郎であるという説が昨今強まっているという。)

(そもそも中島なる人物はシャグマを被る地位にあったのか。シャグマを被ってて「吾が兵だ」も無いもんだと思うが。)

資料がどっかへ行ってしまって定かではないが、慥か会津武家屋敷を再現するきっかけとなったのは、一枚の絵図面を発見した事に由るらしい。家老・西郷頼母邸の絵図面である。

その絵図面の写しを本で見たが、寸法も何も記載が無く、所謂只の間取り図みたいなもんだったと記憶している。
随って敷地の形状だとか材木の種類だとか寸法だとか壁の色(そんな何色も種類が有る訳ではあるまいが)だとかいった情報は、件の絵図面から得る事は出来ない。
頼母邸再現を任された建築士は、だから一体どうしたものやら思案に暮れたという。

其処で建築士は、日本各地に残存する武家屋敷を見て廻ったんだそうだ。
それこそ、会津の仇敵・九州の地迄見て廻っただろう。
其の結果、柱は何を使って、部屋の様式はナントカ風にして・・・と、推測を含めて猶且つ様々な要素の寄せ集めの様な武家屋敷が出来上がった様だ。

で、例えば上で紹介した手水場の「天井が無く、いきなり梁が剥き出しになっている」様な構造や、槍の間の畳の敷き方などは、尤もらしく展示されてはいても、果たして西郷頼母邸で本当に採用されていたものかどうかとなると、かなり恠しいのではないかと思ったりする。
判らんよ。全国の平均何千石クラスの重臣宅には大抵使われている手法だから採用した・・・のかも知れんし、全国の平均何千石クラスの重臣宅の凡そ半数に使われている手法だから採用した・・・のかも知れん。

唯言えるのは、アレをあの儘「西郷頼母邸だ」「会津に固有の建築様式だ」とは思い込まない方が良かろうという事だ。

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