薫風庵代表・じゅうべい先生による
兵法修行の実践
〜武士は如何にして修行したか〜
 
 
古武道の稽古(2)まずは古武道に馴染もう
古武道を観る
現在古武道界にはいくつかの団体があり、団体主催の大会で演武を観ることができます。また、地域の祭事などの際にその土地の流派が演武を行うこともあるようです。
大きな団体としては日本古武道振興会、日本古武道協会があり、このほかにもいくつかの団体があります。東京近郊での演武の機会が多いのですが、京都や広島などでも演武を観ることができます。
大きな演武の機会は、古武道振興会関連では4月浅草、5月京都下賀茂神社、7月靖国神社、9月靖国神社、11月明治神宮などでの演武があり、古武道協会では2月日本武道館、11月厳島神社などでの演武があります。こういった大きい大会では各地の流儀を観ることができるので、良い機会かと思います。

古武道を知る
本で知る
古武道関連のきちんとした本はなかなか見つからないかもしれませんが、東京神田神保町の「高山本店」には武道関連の本(比較的手ごろな価格のものもあります)があります。武道の流儀を知るには綿谷先生・山本先生共著の「武道流派大辞典」が少々高い本ですがお薦めです。

ビデオで知る
古武道の各流派の代表技の演武をビデオにしたものが日本武道館から発行されています。昭和50年前後につくられ1本1万円近くしてしまいますが、気になる流派の技を観ることができます。

本流を知る
流儀には伝系というものがあります。その流派の元はどこで誰が始め、それを誰が独立して今の流派になったかということですね。香取神道流や竹内流のように同じ場所で代々一子相伝というかたちで続いている流儀もありますし、姓に関係なく、流儀を伝えているものもあります。また近年になって資料を元に昔の流儀を再興したものもあるようです。

古武道を習う
さて、ここが本題なのですが、一口に「こうすれば良い」ということができないのが難しいところなのです。道場によっては見学不可というところもありますので、正直なところ「足と目と耳で探し、実際に触れてみる」しかありません。しかし、あちこち入門してみるとすると入門料や月謝などでお金がかかってしまいます。まずは上記のような大会で各流派の演武を観て、気になる流派に問い合わせてみるのが良いのではないでしょうか。
また、自分がどんなことを学びたいのかを見直すことも必要でしょう。剣術なのか、柔術なのか、槍や薙刀なのかでも違ってきます。もちろん本来は総合武術であったわけですから、剣、柔、他を同時に稽古する流派やいくつかの流派(剣は何流、柔は何流というように)を併伝しているところもあります。
昇級や昇段問い合わせの際に「昇級・昇段」はどれくらいでできるかとか「技はすぐに教えてくれるのか」とか「何年やれば免許がもらえるか」などと尋ねてこられる方もいらっしゃいます。古流は段位はあって無きがごとしとわたしはおもっています。現在古流を継承されている先生方のほとんどが他に仕事を持ちながら流儀の継承をされているかたです。たとえば江戸時代に1年で目録、3年で皆伝をもらった方がいるという話を聞いたとします。これは毎日何時間も稽古をして為しえることで、現代のように週に1・2回2〜3時間の稽古では、数倍の時間がかかるのはあたりまえでしょう。私の習っている流儀では昇級昇段は年に1回です。特に審査があるわけではなく、宗家が判断します。本来は「級」というものは無く、段位も「初段、中段、目録、免許(本来の名称は違いますが意味としてはこういう形)」の4段階でした。しかし、稽古をして行く上での目標値として励みのためと子供の門人が多くなったこともあり、先代の頃から「級」を初段の下の設けました。そして、段位も初段から目録の間に何段階か設けてあります。指導者の資格は目録以上、段位の発行権は宗家のみとなっています。段位の目安は技の進み具合と人格などの人間面も考慮されます。いくら技が上手でも指導に適さない人はその部分ができるまでは指導者になれないということもあるかもしれません。
また、流儀によっては段位が進まない限り次の技の習得ができないというところもあります。一概にこうであるとは言えないものなのです。

極意とは
極意の描いてある巻き物を盗んだところ白紙だった。などという小説があったように思いますが、多くの流儀の極意は1本目にあるようです。すなわち初伝の技がつまるところ極意技であると。その技を活かすためにさまざまな稽古を続け、初伝に帰る。居合でも一番最初にならう初発刀が基本であり極意であると言われますし、新陰では三学の1本目の合し撃、一刀流では切り落としとその流派の神髄が一本目に詰まっていると思います。「何年やったら極意を教えてもらえるのか」という質問をされる方がいますが、考え方によっては初伝の段階から極意を教わっているとも言えます。しかし、教わったからといってすぐに本当に自分の技として使えるようになるわけではなく、技が身に着き、そしてそれが自分の形となってどのような時にも対処していけるようになって初めて極意技と呼べるようになるのではないでしょうか。極意とは目や耳で知っても意味がないということだと思っています。つまりは沢山稽古をすることによって培われて極意へと進化していくものであり、年月ではないと私は思います。しかし、仮に極意が見えたとしても道は半ばといったところなのではないでしょうか。武道の道に終わりはないのですから。かくいう私もまだまだ遙か遠い道のりと感じています。