閲覧者様リクエスト企画
元禄赤穂事件・「脱盟組♪

言わずと知れた「元禄赤穂事件」。
「浅野家分限帖」に依れば、播州赤穂の浅野家では、士分の者だけで三百余人に達するが、最終的に吉良邸討ち入りに参加したのは四十六(七)人に過ぎない。

不参加者達は、討ち入り決行迄の、どの時点で不参加を決めたのか。
次の3タイプに大別出来よう。

[A]、最初から仇討などとんでもないと異を唱えていたAタイプ。
[B]、御家再興の望みがある裡は仇討に加盟していたが、御家再興の望みが潰えると、さっさと脱盟していったBタイプ。
[C]、仇討の意思はあったが、諸般の事情から脱落してしまったCタイプ。

これらをちびちび説明していこう。

 
Aタイプ
江戸での「松の廊下」事件が急報された時、国元の城内大広間では大会議が行われた。

浅野五万三千石は御取り潰し。主君浅野内匠頭長矩は切腹。長矩の弟・大学は閉門。浅野家の親類筋も夫々罰せられる事が既に決定事項となっている。
其の上、相手方の吉良には御咎め無しであるという。

さあ、どうするか。この段階では仇討如何というより、
「君、辱められれば、臣死すと申す。むざと御城を明渡してなるものか。斯くなる上は幕府が軍勢を相手に、矢玉の続く限り戦うべし。」
とする「籠城抗戦派」。

「あいや、幕府に刃向かうばかりが御奉公にては御座らぬ。ここは城前にて腹かっさばき、江戸よりの上使に、浅野家が存続、嘆願致してみては如何か。」
とする「開城恭順派」とに分かれた。

後者がAタイプという事になるが、この中で誰か代表者の名を挙げるとすれば、家老の大野九郎兵衛であらうか。

彼の言い分としては、
「主君が切腹仰せ付けられたは至極残念なれども、幕法に違背されたのなれば是非も無し。処罰を恨み、公儀に刃向かうは愚行なるべし!」
である。

人はこれを「武士道精神が欠落している」等と言うが、皆さんはどう思われるであろうか。

彼のこの言動だけを以って、徹底抗戦派との主張の違いを考える時、今を去る事三十年前、「浄瑠璃坂仇討」の原因にもなった、下野宇都宮藩士・奥平内蔵之允と奥平隼人との武士道観の違いを想起させる。

追い腹禁止令が出ているにも拘わらず追い腹を切った藩士・杉浦右衛門兵衛に対し、「田分けた事」と言ってのけた奥平内蔵之允。
対して「追い腹は武士の大義の顕れ」と言った奥平隼人。

この場合は最終的に、戦国気風の隼人が悪者にされている。
(悪者とされる原因は他にもあるが、事件の結末が結末だけに、彼の言動から何から、全て悪者扱いにされてしまっている。)

然るに元禄赤穂事件では、「吉良討つべし」の過激派の行動が武士の鑑とされる。
どっちもどっち、「勝てば官軍」と言ったところだが、事件発生当時から、識者の間では義士の行動について異論があったという事も、事実として踏まえておかねばならない。

とかなんとか色々取り様はあろうが、実際問題として大野九郎兵衛の場合、その後がどうもいけない。

堀部安兵衛の、「堀部武庸筆記」に依れば、
「大野九郎兵衛何事カオソロシカリケン、夜中取物も取敢ズ一人逃出ケル。倅郡右衛門モ同ク逃ゲ候テ、娘ヲモ捨残シテ、何方ヘカ落行ケン。女乗物ニテ逃タル由。」

夜逃げ同様に、娘をも抛っといて逃げ出したばかりか、女駕籠に乗ってカムフラージュしたとある。
むむぅ・・・。

 
Bタイプ
まだこの時点では、主君長矩の弟で謹慎となっている大学を主君に祭り上げ、御家再興させるという希望が残っていた。

城内での会議は、回を増す毎に参加人数が減っていった。

初めは家老たる大石内蔵助の態度が煮え切らなかったからであるが、段々聞いたら、内蔵介の本心が、実は籠城戦死にあると薄々分かってきたので、それで更に会議出席者がごそっと減った。
怖気づいたという人も居るが、この時点で果たしてそう迄言えるのか。
戦国気質の武士道に照らしてなら知らず、この時期、分別ある武士の判断として肯定する方向でも考えられると思うのだが・・・。

兎も角、結局三百人程居た士分の者が、この時点で六十一人に迄減っている。
(どの時点か不明乍ら、血判書に署名した人数は一説に百二十人)

この大石を含めた六十一人は、血判書に盟約している。(江戸詰めの士の分も入っているか?)
ここから、大石の「振るい」にかけられて脱落していく者が更に出る。

大石の主張が、「籠城の上、哀訴嘆願」にあるかと思えば、「切腹殉死」にころっと変わり、「無血開城」へと更に変わる。
此処で脱落する者がある。

更に、一縷の希望であった、大学を主君に祭り上げての御家再興が、大学の広島浅野本家への永久御預けの決定により、絶望的となった事で、更に脱落者が出る。

それで残った者達が、いよいよ討ち入りだと覚悟を決めた頃、更に大石は、
「昨年来、御家再興に苦心して参ったが、その甲斐無く、大学様は左遷。この上尽力の仕様もなき事ゆえ、かねて御手前らの出されし神文誓書を一先ず御返し致す。各々御随意に向後の身の振り方を決められたい。」
と、残った者達へ使者を遣わして言わしめた。それを聞くや、
「我等が盟約致せしは、不倶戴天の敵、吉良を討たんが為。それを今になって誓書を突き返さるるとは、如何なる御存念か!」
と、刀を抜かんばかりに激昂する者がある。
そうかと思うと、反面、此処で「ホッ」として脱落していく者も数人・・・。

Bグループで脱落していった者達は、奥野将監(千石)、進藤源四郎(四百石)、小山源五衛門(三百石)、河村伝兵衛、長沢六郎左衛門など高禄者が多かったという。
因みに、源四郎と源五衛門は大石と縁続きの者であった。
理由としては、「時期尚早」だとか、「大石とは意見が異なる」だとかが多かった。
もうちょっとマシな理由はなかったのだろうか。

この時点での残人数は、五十三人か、五十四人か(?)。
いや脱落するする。此処迄来ると、殆どウルトラクイズの如き様相を呈してくる。

 
Cタイプ
このタイプは、討ち入り直前に迯げたか、亦は、時期が前後するが、事情があって討ち入りに参加しなかった者達である。

高田郡兵衛

こういった理由での最初の脱落者は彼であろう。
江戸急進派(浅野家江戸詰め衆中、討ち入りを早く決行しろぉ、決行しろぉ・・と騒いだ連中)の「三羽烏」の一人である。

郡兵衛は、旗本・村越伊予守に仕える内田三郎兵衛という叔父から養子に望まれていた。
だが主家たる浅野家が微妙な状況下でもあり、郡兵衛は同居している兄・弥五兵衛を通じて断り続けていた。
併し三郎兵衛は却々に執拗で、容易に諦めない。
仕方無く弥五兵衛は仇討の計画を漏らしてしまう。
それを聞いた三郎兵衛は、諦めるどころか却って、公儀に訴えると脅しをかけてきた。
こうなれば是非無し。困じ果てた郡兵衛は、堀部安兵衛や奥田孫太夫に事情を打ち明け、遂に脱盟してしまった。
この時郡兵衛は、「其許等が本望遂げた暁には身共も生きてはいまい。」と仇討後の自害を匂わせたが、義士一同の切腹後もちゃっかり生き延びている。
討ち入り後、義士等一行が泉岳寺へ向かう途中、三田八幡付近に郡兵衛が立っていた。
一同顔を背けて通り過ぎる中、唯一人、堀部安兵衛だけが、
「同志一同斯様吉良が首級討ち取った。是より泉岳寺へ向かう。」
と声をかけてやった。
郡兵衛は其の後、泉岳寺へ酒を差し入れようとしたが、義士達に突っ返されてしまった。

橋本平左衛門

元禄十五年七月、この頃まだ大石の去就及び方針が明確ではなかったから、精神的に不安定だったのだろうか。
彼は大阪曽根崎新地の遊女(京都蜆川の茶屋女お初との説有り)と情死してしまった。
以上。

田中貞四郎

もっと短いのをひとつ。
彼は酒色に溺れ、金に窮した挙句に脱走した。
しかも彼は梅毒で顔が変わっていたという。
以上。

小山田庄左衛門

酒色に溺れて脱走した点では田中と一緒である。
併し彼はもっと悪い。
何と、同志の片岡源五衛門の留守宅から、金三両と小袖を盗んで迯げたというセコイ真似をしている。
彼の父・重兵衛は、八十一歳の老齢であったが、自分の息子が義挙に加わっていない事を知ると、脇差でおのが胸を突き刺して死んだ。
刃先が背後の壁迄届いていたといわれる。
巷説では、この庄左衛門は名を変えて、江戸で町医者をしていたという。
彼の下僕・権兵衛は、直助という男と偕に縄目を受けて死罪になったが、捕まった理由と言うのが、主人を殺して金を奪ったからだというのだが、その主人というのが、当の庄左衛門であった。

萱野三平

問題児の話が続いたので、此の辺で美談を一つ。
萱野三平は、主君長矩の刃傷の第一報の使者である。
この時彼は、早見藤左衛門と偕に早駕籠で、江戸から凡そ620キロの道程を四昼夜半で走破したという。
赤穂退散後は、故郷の播州(摂津国というもある)萱野村に戻っていた。
彼の家は代々、五千石の旗本・大島家に仕えていたが、その大島家から三平に、仕官の口がかかった。
彼の父、七郎左衛門は、勿論喜んでこれを受ける。
一方の三平としては、はて、斯かる大事に、有難迷惑な話よ・・・。といったところであったろう。
で、苦しい言い訳乍ら、彼は父に、他家へ仕官したいから江戸へ行かせてくれと懇願し続けていた。
併し、三平の意中を知る父はそれを赦さない。
(一説に、神文の誓約によって本当の理由を、三平は父に明かさなかったので、父から理由を問い詰められていたとするものもあるが、どうなんだか・・・。仮に父親が三平の心底を見抜いていたとすると、ちと複雑である。父親が仕える大島家の一族には、紀伊家で鎗奉行を勤めた者が居た。吉良家は紀伊家とも将軍家とも姻戚関係にある。萱野家から吉良家に刃を向ける者が出たら、その主家たる大島家に累が及ぶ恐れが生じる。であるから、父が息子三平の存念を見抜いていたとするなら、父は忠心から息子の江戸行きを阻止しようとし、息子は息子で忠心から江戸へ向かおうとするという、互いに親子の情と武士道を計りにかけるという構図が見えて来るのである。)
そんで進退窮まった三平は、元禄十五年正月十三日夜、山科の大石の元へ永訣の書状と思しきものを持ち行かせ、内匠頭の忌日にあたる十四日朝、遺書を残して自害し果て、武士の意地を貫いた。享年二十八歳。
討ち入り後大石は、御預けとなった先の細川家の堀内伝右衛門に、
「萱野三平が今日存命であれば、我等一党の中に加わっておろう。」
と語ったと言われる。

毛利小平太

彼は二十石三人扶持(一説に五人扶持。時期によるであろう。)の軽輩乍ら、吉良邸探索には最も活躍し、大きな功があった。
吉良邸には竹矢来が組まれ、外部からの侵入が困難だという噂が流れると、彼は一人小者に身を窶し、門から堂々と入って内部を偵察し、その様な事実は無い事を確認した・・・・等である。
その彼が兄の元へ暇乞いに行った時、うっかり大事を漏らしてしまった。
この兄は、内匠頭の従兄弟にあたる戸田氏成の家臣であったから、主君に迷惑が及ぶのを懼れ、公儀に訴え出る!と小平太を脅迫した。
進退窮まった小平太は、討ち入り三日前、遂に逐電してしまった。
この時彼の残した一書がある。

「一、私儀、俄かに拠所無き存知寄りこれあり候に付、此度申合せ候御人数相退き申し候。左様御心得下さる可く候。
一、前々より万端申し承り候口上御書付の趣、日本の神慮以外毛頭他言仕る間敷く候。此の旨御気遣い下され間敷く候。
一、右之段々、御同志に只今迄申し談じ候御面々へ、急ぎ御申し伝え下さる可く候。拠所無き儀出来に付、御断り申し候。御帳面御消し為され下さる可く候。
以上。

              十二月十一日
                    毛利小平太
                                 」

事情としては、前述の高田郡兵衛と似ているが、大石も堀部安兵衛も、小平太の場合に限っては、その裏切りを心配した様子も無く、寧ろその脱落を殊に惜しんだ様である。
郡兵衛の時とはえらい違いだ。
先に書いた様に、彼が折角、道で義士達を出迎えれば無視するし、酒を持っていけば突っ返される。
殆どいじめに近い対応だ。
挙句の果てに、郡兵衛が逐電した時の大石の言葉が、
「飼い犬に手を噛まれた。」
である。
おいおい、幾ら何でも、仮にも武士をつかまえて「飼い犬」はねえだろう。
そういう大石の、人を見下した様な言動も、郡兵衛の人間が、信用するに足らないキャラクターだったからだと推測するのが順当だろうが、意外と人間というのは、
「あいつは、しつけぇからなぁ。」とか、
「あいつは、話長ぇからなぁ。おんなし話を何回も繰り返すし。」とか、
「あいつは自分の話ばっかするからなぁ。」
という様な、つまらん事で人を毛嫌いするし、それもまたリーダー的存在の人間が言い出した事であると、あの人がAさんの事嫌いだから私も嫌いっ!が伝播して、仕舞いにはAさんを嫌いじゃないといけない。Aさんに冷たく接しないといけない。という様な強迫観念というか、集団催眠みたいになる事もあるから、一概に郡兵衛が信用の置けぬ人間であったかどうかを断じる事も出来まい。
という訳で、そんな事はどうでもよいのである。

 
番外編
寺坂吉右衛門

よく、「四十七士」と書いてある書物と、「四十六士」と書いてある書物が有るが、御羞ずかしい話ではあるけれども、そもそも私もこの事件に就いてさしたる興味も無く、何故人数に違った記述があるのかを實は知らなかった。

幸いにして「仇討」をコンテンツとして採りあげた必要上、調べる機会に恵まれて知ったのであるが、どうもこの人数変動の原因の張本人は、茲で採り挙げた寺坂吉右衛門その人であるらしい。
この人を入れて「四十七士」なのである。

では何故この人を、人数に入れたり外したりするのか。

一説には「足軽」だったから。ともいう。
武士の事を「士卒」等という。つまり「士」と「卒」に分けられるのである。
この「卒」がつまりは足軽であって、いわば「準士分」とでも言おうか。
但し、「士分」という言葉はあっても、「卒分」という言葉は無いが。

話が飛んだ。
つまりは士分でないから、人数に数えていないのだとする説である。

一方で、「討ち入りに参加しても、最後の切腹迄はしていないから、義士ではない。」とする説があり、こちらの方が一般的な様だ。

切腹しないでどうしたのか。
定説では「逐電」の様である。

先に「討ち入りに参加しても」と書いたが、實は当事者達の証言に矛盾があり、討ち入りに参加したのかどうかが定かではない上、何時逐電したのかも時期が特定出来ないらしい。

説によって、討入りにそもそも参加しなかったとするものと、討入り後、裏門から消えたとするものがある。

寺坂は「元禄十五壬午播州赤穂浪人衆江戸表働之事」という記録書簡を残しているが、其の中で、「玉火松明(これがどんな松明か説明しようと思って資料を探したのだが、どの本に書いてあったかわからなくなってしまった!)味方人数等手に手に是を持ち」と、これは出発前の装備を揃える段階での記述であるが、そして、「用意悉く出来候に付、十二月十四日の夜七つ時分右之三ヶ所手々に松明、得道具持候而、上野助殿御屋敷へ取懸り申候」と記してある。

ところが一方、義士の一人、小野寺十内秀和が妻に宛てた書簡に、
「火の明かりは世間を憚り、提灯も松明も点さねど、有明の月冴えてまがうべくもなく・・・」
と、月が明るいし、明かりは目立つので松明はともしていない旨の記述があるのである。

確かに一見矛盾している様である。

これに目をつけた天保の儒者・大蔵謙斎が、
「(寺坂が)提灯を用いざりしを知らざるは、その会せざるの一証とすべき歟」
と、「大蔵謙斎所記」に記したのが、「寺坂が討ち入りに参加していなかった説」を有力的なものにしてしまった様である。(寺坂の記録書簡には、松明を「持っていた」とはあるが、「ともしていた」とは書いていないので、小野寺の書簡と矛盾していないといえば言える。随って、「寺坂討入り不参加説」を簡単に信ずる事もならない。)

加えて、細川邸に御預けとなった義士達の証言で、先ず吉田忠左衛門が、
「この者は不届き者にて候。重ねて名を仰せられ下されまじく候。(堀内伝右衛門覚書)」
と言っているし、同じく原惣右衛門も、
「かの屋敷に参らず候て、逐電申し候。(弟、和田喜六宛て書状)」
大石、原、小野寺三名の連名書でも、
「寺坂吉右衛門儀、十四日暁までこれあるところかの屋敷へは相参らず候。(寺井玄渓宛て書状)」
とあるので、寺坂は討入りに参加していなかったという説を取るのが一般的なのかも知れない。

こういう記録書簡というのは、義士を預っている各大名家から、大目付に提出される筈である。

当時の大目付は仙石伯耆守だが、寺坂の書簡と、義士達の供述書との食い違いに気付かぬ仙石は愚物だろうか。

一説に寺坂は、大石の命によって、主君長矩の広島に在る舎弟、大学や、赤穂の歴代藩主の墓前に、事の顛末を復命に遣わされたとするものがある。

仙石はそれと知って、敢えてこの矛盾に目を瞑ったのではないかとする研究者もある。
討入りに参加していたのが明確であれば、寺坂を捕らえて処罰しなければならない。
併し捕らえてしまえば、大石達の最後の願いである、大学や墓前への報告を阻んでしまう事になる。
若しこの研究者の読みが正しく、仙石が目を瞑ったのなら、武士は相身互い。大石等の願いを果たさせた仙石も亦武士。という事になろう。

寺坂が討入りに参加したかどうかを詮索しても、今となっては詮無き事である。

只、大石等は口上書の四十七人から寺坂の名を抹消していない事だけは覚えておいて良いだろう。

寺坂は、晩年、山内主膳豊清の世話になり、八十三歳の天寿を全うした。

   
最後に
リクエストを頂いた閲覧者の方には、

「討入りに参加しなかった面々の、社会的な苦悩を取り上げて欲しい。」

との御依頼を頂いたのであったが、如何せん資料が尠ない。

社会から身を隠していたのであろうから、資料が尠ないのも恠しむに足らないが。

だが、先に挙げた高田郡兵衛も、其の後養子縁組が纏まったという話は残っていない事から見ても、矢張り不義士の汚名が破談にさせたものであろう。

酷いのは、最初から盟約に加わっていなかった岡林杢助という人物は、はじめは江戸でのんびり暮らしていたのに、義士達が討入りを決行するや、兄である旗本・松平孫左衛門に不忠義をなじられ、一族の面汚しと迄言われた。

立場に窮した杢助は、とうとうヤケになって自刃。弟が介錯をしたという。

そこから察しても、討入りに参加しなかった面々の不遇な一生が想像できるが、そうした苦難に遭っていても、最終的に義士の討入りが成功したところをみると、不参加者の裡、誰一人として大石達の計画を公儀に訴え出る者が居なかったからに他ならない。

皆、社会的に苦労はしても、忠や義の心は捨て得なかったのであろう。

(了)