閲覧者様リクエスト企画 |
元禄赤穂事件・「脱盟組♪」 |
言わずと知れた「元禄赤穂事件」。 「浅野家分限帖」に依れば、播州赤穂の浅野家では、士分の者だけで三百余人に達するが、最終的に吉良邸討ち入りに参加したのは四十六(七)人に過ぎない。 不参加者達は、討ち入り決行迄の、どの時点で不参加を決めたのか。 [A]、最初から仇討などとんでもないと異を唱えていたAタイプ。 これらをちびちび説明していこう。 |
Aタイプ |
江戸での「松の廊下」事件が急報された時、国元の城内大広間では大会議が行われた。
浅野五万三千石は御取り潰し。主君浅野内匠頭長矩は切腹。長矩の弟・大学は閉門。浅野家の親類筋も夫々罰せられる事が既に決定事項となっている。 さあ、どうするか。この段階では仇討如何というより、 「あいや、幕府に刃向かうばかりが御奉公にては御座らぬ。ここは城前にて腹かっさばき、江戸よりの上使に、浅野家が存続、嘆願致してみては如何か。」 後者がAタイプという事になるが、この中で誰か代表者の名を挙げるとすれば、家老の大野九郎兵衛であらうか。 彼の言い分としては、 人はこれを「武士道精神が欠落している」等と言うが、皆さんはどう思われるであろうか。 彼のこの言動だけを以って、徹底抗戦派との主張の違いを考える時、今を去る事三十年前、「浄瑠璃坂仇討」の原因にもなった、下野宇都宮藩士・奥平内蔵之允と奥平隼人との武士道観の違いを想起させる。 追い腹禁止令が出ているにも拘わらず追い腹を切った藩士・杉浦右衛門兵衛に対し、「田分けた事」と言ってのけた奥平内蔵之允。 この場合は最終的に、戦国気風の隼人が悪者にされている。 然るに元禄赤穂事件では、「吉良討つべし」の過激派の行動が武士の鑑とされる。 とかなんとか色々取り様はあろうが、実際問題として大野九郎兵衛の場合、その後がどうもいけない。 堀部安兵衛の、「堀部武庸筆記」に依れば、 夜逃げ同様に、娘をも抛っといて逃げ出したばかりか、女駕籠に乗ってカムフラージュしたとある。 |
Bタイプ |
まだこの時点では、主君長矩の弟で謹慎となっている大学を主君に祭り上げ、御家再興させるという希望が残っていた。
城内での会議は、回を増す毎に参加人数が減っていった。 初めは家老たる大石内蔵助の態度が煮え切らなかったからであるが、段々聞いたら、内蔵介の本心が、実は籠城戦死にあると薄々分かってきたので、それで更に会議出席者がごそっと減った。 兎も角、結局三百人程居た士分の者が、この時点で六十一人に迄減っている。 この大石を含めた六十一人は、血判書に盟約している。(江戸詰めの士の分も入っているか?) 大石の主張が、「籠城の上、哀訴嘆願」にあるかと思えば、「切腹殉死」にころっと変わり、「無血開城」へと更に変わる。 更に、一縷の希望であった、大学を主君に祭り上げての御家再興が、大学の広島浅野本家への永久御預けの決定により、絶望的となった事で、更に脱落者が出る。 それで残った者達が、いよいよ討ち入りだと覚悟を決めた頃、更に大石は、 Bグループで脱落していった者達は、奥野将監(千石)、進藤源四郎(四百石)、小山源五衛門(三百石)、河村伝兵衛、長沢六郎左衛門など高禄者が多かったという。 この時点での残人数は、五十三人か、五十四人か(?)。 |
Cタイプ |
このタイプは、討ち入り直前に迯げたか、亦は、時期が前後するが、事情があって討ち入りに参加しなかった者達である。
高田郡兵衛 こういった理由での最初の脱落者は彼であろう。 郡兵衛は、旗本・村越伊予守に仕える内田三郎兵衛という叔父から養子に望まれていた。 橋本平左衛門 元禄十五年七月、この頃まだ大石の去就及び方針が明確ではなかったから、精神的に不安定だったのだろうか。 田中貞四郎 もっと短いのをひとつ。 小山田庄左衛門 酒色に溺れて脱走した点では田中と一緒である。 萱野三平 問題児の話が続いたので、此の辺で美談を一つ。 毛利小平太 彼は二十石三人扶持(一説に五人扶持。時期によるであろう。)の軽輩乍ら、吉良邸探索には最も活躍し、大きな功があった。 「一、私儀、俄かに拠所無き存知寄りこれあり候に付、此度申合せ候御人数相退き申し候。左様御心得下さる可く候。 十二月十一日 事情としては、前述の高田郡兵衛と似ているが、大石も堀部安兵衛も、小平太の場合に限っては、その裏切りを心配した様子も無く、寧ろその脱落を殊に惜しんだ様である。 |
番外編 |
寺坂吉右衛門
よく、「四十七士」と書いてある書物と、「四十六士」と書いてある書物が有るが、御羞ずかしい話ではあるけれども、そもそも私もこの事件に就いてさしたる興味も無く、何故人数に違った記述があるのかを實は知らなかった。 幸いにして「仇討」をコンテンツとして採りあげた必要上、調べる機会に恵まれて知ったのであるが、どうもこの人数変動の原因の張本人は、茲で採り挙げた寺坂吉右衛門その人であるらしい。 では何故この人を、人数に入れたり外したりするのか。 一説には「足軽」だったから。ともいう。 話が飛んだ。 一方で、「討ち入りに参加しても、最後の切腹迄はしていないから、義士ではない。」とする説があり、こちらの方が一般的な様だ。 切腹しないでどうしたのか。 先に「討ち入りに参加しても」と書いたが、實は当事者達の証言に矛盾があり、討ち入りに参加したのかどうかが定かではない上、何時逐電したのかも時期が特定出来ないらしい。 説によって、討入りにそもそも参加しなかったとするものと、討入り後、裏門から消えたとするものがある。 寺坂は「元禄十五壬午播州赤穂浪人衆江戸表働之事」という記録書簡を残しているが、其の中で、「玉火松明(これがどんな松明か説明しようと思って資料を探したのだが、どの本に書いてあったかわからなくなってしまった!)味方人数等手に手に是を持ち」と、これは出発前の装備を揃える段階での記述であるが、そして、「用意悉く出来候に付、十二月十四日の夜七つ時分右之三ヶ所手々に松明、得道具持候而、上野助殿御屋敷へ取懸り申候」と記してある。 ところが一方、義士の一人、小野寺十内秀和が妻に宛てた書簡に、 確かに一見矛盾している様である。 これに目をつけた天保の儒者・大蔵謙斎が、 加えて、細川邸に御預けとなった義士達の証言で、先ず吉田忠左衛門が、 こういう記録書簡というのは、義士を預っている各大名家から、大目付に提出される筈である。 当時の大目付は仙石伯耆守だが、寺坂の書簡と、義士達の供述書との食い違いに気付かぬ仙石は愚物だろうか。 一説に寺坂は、大石の命によって、主君長矩の広島に在る舎弟、大学や、赤穂の歴代藩主の墓前に、事の顛末を復命に遣わされたとするものがある。 仙石はそれと知って、敢えてこの矛盾に目を瞑ったのではないかとする研究者もある。 寺坂が討入りに参加したかどうかを詮索しても、今となっては詮無き事である。 只、大石等は口上書の四十七人から寺坂の名を抹消していない事だけは覚えておいて良いだろう。 寺坂は、晩年、山内主膳豊清の世話になり、八十三歳の天寿を全うした。 |
最後に |
リクエストを頂いた閲覧者の方には、
「討入りに参加しなかった面々の、社会的な苦悩を取り上げて欲しい。」 との御依頼を頂いたのであったが、如何せん資料が尠ない。 社会から身を隠していたのであろうから、資料が尠ないのも恠しむに足らないが。 だが、先に挙げた高田郡兵衛も、其の後養子縁組が纏まったという話は残っていない事から見ても、矢張り不義士の汚名が破談にさせたものであろう。 酷いのは、最初から盟約に加わっていなかった岡林杢助という人物は、はじめは江戸でのんびり暮らしていたのに、義士達が討入りを決行するや、兄である旗本・松平孫左衛門に不忠義をなじられ、一族の面汚しと迄言われた。 立場に窮した杢助は、とうとうヤケになって自刃。弟が介錯をしたという。 そこから察しても、討入りに参加しなかった面々の不遇な一生が想像できるが、そうした苦難に遭っていても、最終的に義士の討入りが成功したところをみると、不参加者の裡、誰一人として大石達の計画を公儀に訴え出る者が居なかったからに他ならない。 皆、社会的に苦労はしても、忠や義の心は捨て得なかったのであろう。 (了) |