東北武家関係写真館 |
福島編 |
福島は二本松にある二本松城址。 城本体は残っていなかった。 写真はてっぺんから見た石垣の様子。 |
二本松に在る「安達ケ原ふるさと村」というテーマパーク(?)内に再現された、二本松家中百石取りの武士の家の再現。 と申しても、「何の何某の家」というんではなく、「只何と無く武家屋敷」であろう。 随って、必ずしも「二本松藩士の家とは斯様なものか」と信じるも如何かと思われる。 |
上記の別角度からの画像。 |
福島は白河の小峰城。 奥羽の玄関口とて、戊辰の役の砌には東軍・西軍偕に此処を確保しようと戦闘が起こった。 手前の芝生の所には、嘗て上級武士の屋敷が建って居た。 |
ちょっと接近。 言っておくが、此の建造物は本丸ではなく、単なる櫓の類い。三重櫓。 |
中央やや右下寄りの平屋は公衆便所だが、公衆便所にして此の風情である。
「中央やや右下寄りの平屋は厠だが」 |
石垣は未だ健在。近くで見ると壮観だ。 それにしても此処で会津・仙台主力の東軍2500と、薩長主力の1400が戦って、諸説有るが東軍の戦死者780余り等と云う数字も見られるんだから、よく考えたら「惨殺事件のあったホテル」なんかよりよっぽど恐ろしい筈だ。 併し「惨殺事件のあったホテル」の部屋に一泊するより此処で一泊した方がマシだと思うのは一人私だけではあるまい。 |
※「惨殺事件のあったホテル」 栃木県那須塩原に「源三窟」と云う鍾乳洞が在る。 源義経に踉き随って敵の手を遁れて来た源有綱ら一行が、主である義経と別れて此の鍾乳洞に潜伏したが、敵に発見され、鍾乳洞内で命を落とした・・・と云う伝説の有る鍾乳洞だ。 誰の物か不明乍ら鍾乳洞内で甲冑が発見されており、其の甲冑に亡霊が宿ると、嘗てTVで紹介された由だ。 源有綱云々は飽く迄伝説であるから、本当に此処で彼が命を落としたのかは不明なんだろうが、一行は四〜五人であったと云うから、彼等の内の別の誰かが落命したのかも知れないし、亦は全く別人の一行だったかも知れない。併し甲冑が斯様な場所で発見されたのだから、恐らく誰かは潜伏していたのだろう。それに、戦時中に戦闘員が甲冑をほっ放り出して迯げ出すとも考え難いから、甲冑を着けた儘落命したと見るのが妥当かと思われる。 拝観料を払って鍾乳洞内部に這入ると、人一人がやっと通過出来る程度の幅である。 尠くとも此の場所で誰かが自害したか殺害された可能性は高く、だとすれば死亡現場は長く見積もっても数十センチと離れていない筈だ。 拝観者は其処を通る訳である。如何に八百年も前の事とは云え、これは気持ち悪い! でも、惨殺事件のあったホテルやアパートで一晩過ごすのだったら、やっぱり私は此の鍾乳洞で一晩過ごす方を選ぶ。 ところで、こうしたおどろおどろしげな伝説の残る史跡というものは、江戸期には一体どの様な扱いを受けていたのだろう? 塩原温泉に限って云えば、温泉地として現在の様に全国から人が集まって来る様な体裁が整ったのは、何の根拠も無いが近代に入ってからだと思う。だとするとそれ以前は、鄙びた温泉宿を経営する人々以外の周辺住民は、現代の周辺の状況を見て推測出来る様に、単なる農民が大多数であったものと思われる。 農民が拝観料を払って、果たしてこんな場所を見に来るだろうか? そもそも此の鍾乳洞自体、史跡として幕府乃至は藩から指定を受け、何らかの特別扱いを受けて居たのだろうか?管理者を買って出て、拝観券を鬻いで糊口を凌ぐ輩が居たのだろうか? 思うに、「昔惨殺事件が有った洞窟」ぐらいの認識で、周辺の農民から忌避されて、荒れ果てていただけなのではないかと思ったりするのだが。 こういう場所は大昔の伝説が有るから今に伝わるワケで、今に伝わってんのなら当然江戸期であっても「大昔の伝説が残る史跡」であった筈である。併し、そういう場所が実際「江戸期にはどう認識されていたのか?史跡としての扱いはどうだったのか?」と云う点を明らかにする史料と云うのは見付け難いんだろうなぁ。 |
堀と石垣と櫓。 |
本丸跡の周囲を取り巻く土塁に物見台が築かれていた。 向こうに山が見える。 |
前御門を潜ろうとする時に見える三重櫓。 櫓が先に再現されて、前御門は後に再現されたらしい。 |
櫓近影。 中は白石城内部に酷似。 同じ建築事務所に頼んだのか? |
同じく白河の「白河関跡」入り口。 写真中央は愚息。 |
白河関跡の説明。 関の跡だと云うから江戸期に国境の入国審査場として機能していたのかと思いきや、その江戸期の人間からして、この場所の存在を知らなかったらしい。 この説明書きの拡大画像はこちら。 |
入り口を入ると狛犬が出迎える。 一応神社となっているので、うがい、手洗い場も見える。 |
墓場かと思ったら単なる碑でホッとした。 要は白河藩主の松平さんが1800年に立てたのだという事が書いてある。 |
現場に足を運んで置きながら説明文を読まないので分からんが、土塁も残っているという事は、平山城の様な機能も果たしていたのか?詳しくは上の説明看板を御参照の事。 |
嘗てこの地に有名人が音ずれた砌に詠んだ歌が碑に残されている。 |
碑の隣に分かり易い様に書き直した看板がある。 これは拡大画像を用意しなくても読めますよね。何と無く。 |
「続・会津編」でも触れた、会津の恨みに就いてだが、此のコンテンツも福島編と云う事であるし、戊辰の役の戦場である白河城址の掲載もして居る事迚、ちょっと蒸し返していい? 私は心情的には会津寄りであり、元々佐幕派でもあるので、会津人の恨みには共感する処大なのだが、何か最近(最近って、最近も言ってる人が居るのかどうか判らんが)、会津発の「対薩長恨み節」が、韓国の反日と重なって来てしまっている。 清廉実直な会津人の事であるから、真逆中国・韓国の様に、嘗て受けた被害を歪曲・誇張した主張はしないが、未だに「補償しろ」「薩長皆敵」等と仰る向きがあると云う話には、些か閉口する。 これは大人気無くも日本の国旗を喰いちぎる韓国のとっつぁま、日本国旗を踏みつける絵を描く韓国の小学生、「日本を攻撃する」と息巻く徴兵経験者等の、民衆レヴェルの反日を思い浮かべれば何と無く感覚的に理解出来ようかと思う。 元より会津人が、韓国人の様な感情剥き出しの反薩長をしていると云うのではない。 併し、あの様な韓国人の姿を見るにつけ、程度の差こそ有れ、日本国内でも(古い意味での)他國に対しての恨みが残っていると云うのも、どうかと思ってしまう。 中国は周辺国に対してミサイルの照準を合わせ、弱小国には核爆発で脅しをかけ、異常な位の軍備増強をしてアジアの覇権を窺っている。アメリカもそれに対して警戒を強めている。 北朝鮮はミサイルに搭載可能な核を持っているのかどうか知らんが、核で恫喝外交をし、国家が瓦解寸前で、何時隣国に攻撃を仕掛けてくるやも判じ難い。 韓国も名目上の仮想敵国である北朝鮮に対する「対北軍備」以上の軍備増強をして来て居り、何故か日本を仮想敵国としているフシも有る。或る意味北朝鮮以上に思い込みや突飛な行動の多い韓国も危険だ。何時莫迦な指導者や軍指令が日本を攻撃して来ないとも限らない。 隣国にキチガイ国家がズラッと居るのだ。関心は外に向けるべきであって、国内で悠長な事を言っている場合ではない。 琉球も最早、島津に対する恨みは大して有るまいし、再び独立したいとも思うまい。 当時の当事者が全て鬼籍に入っている現在、会津も過去は過去として、同国人を敵視するのはいい加減やめたらどうかと思う次第である。 |