論語
 
 
 
 
江戸期、武士必読の書となった「論語」。

武家社会に於ける道徳思想の基礎を形成したと言っても過言ではないであろう此の書によって、武士達は何を学んだのか。
江戸期の武士を理解する爲には、この点を避けては通れまい。

一番早いのは論語を読んでしまう事であるが、論語を読むのは左程大変ではないにしろ、其の内容は相互に脈絡の無い言行録の寄せ集めである爲、読んでいて退屈である。
亦、大してハッとする様な、「目から鱗」的な教えが書いてある訳でもないので、「読んで時間を損した」観が無いでもない
(私だけか)し、そもそもわざわざ本を買って読もうという踏ん切りも付け難かろう。

で、爰で紹介しようという訳であるが、全文掲載するには並々ならぬ時間と労力を要するし、当HPにリンクさせて戴いている「文志館」様が、訳と偕に論語を全文紹介されておられる優れたコンテンツを御持ちなので、全文御覧になり度い方はそちらを御参照戴き度い。(現在はサイト閉鎖されて居られる様子に付き、当方でもリンク外して居ります。)
爰では、特に重要と思われるものを抜粋で紹介させて戴く。

扨、如何に大体に於いて善悪の判断というのもが或る程度不変であるとはいえ、二千年以上も前の中国人の言葉である。それを近世の、然も日本に於ける道徳観念の基礎として活用する上で、当時の日本の社会状況に必ずしも当て嵌めて考えられるのかという疑問は当然生じる。

例えば、
「○○の儀式の時に、何色の服を着ているのは非礼だ。」
等と言われても、近世日本にそんな儀式は無いのだから、「非礼だ」も糞もない訳である。
が、そういうのは読み飛ばせばよい。

困るのは、例えば、
「夫子の道は忠恕のみ」
という言葉があるとすると、日本では、
「孔子の仰る道というのは、忠義と思いやりの事である。」
と捉えてしまいそうである。

日本語の「忠」は、家臣から主君に對する忠義の意であるが、中国の「忠」は、「他人に対して真心を以って奉仕する」という意味であるので、爰で誤解が生じる恐れがあるのである。
長年多くの人が研究してきて、出来るだけ正しい意味を理解しようという努力が払われてきた論語である。よも左様な誤った理解の仕方をした武士も居るまいと思われるが、若しかすると、日本で「忠義忠義」という事が言われていた背景には、こうした誤解があったのかも知れない。

そもそも論語は難解であって、当の中国、それもこちとらが弥生時代をやっていた頃から、其の解釈に諸説あったらしい。
文体自体がどうとも取れる書き方である上に、時代が下ると生活習慣も変わって行くので、更に不明な箇所が出てくる。

魏の何晏の解説書、「集解」というのがあり、これは此の時代、未だ孔子の時代と左程時を隔てていなかった為、孔子の時代の歴史的な特殊性を理解するという目的というか、観点から書かれている。これを一般に「古注」という。

南宋になって、朱熹の解説書、「集注」が出てくるが、爰迄来ると最早孔子の時代の風俗・習慣について、訳が分からなくなっているので、そうした部分については「古注」を踏まえ、専ら孔子の思想を現代生活に活かそうという目的で解釈されている。これを「新注」という。

古注・新注共に、これらを元にして様々の解説書が書かれたが、吾が国に於いても、古注・新注を取捨折衷して、荻生徂徠、伊藤仁斎、安井息軒、東条一堂などが解説書を書いている。

最後に、荻生徂徠が論語を意図的に日本風にアレンジ解釈してしまった一例を。

「子曰、君子懐徳、小人懐土。君子懐刑、小人懐恵。」
「子曰く、君子徳を懐い、小人土を懐う。君子刑を懐い、小人恵を懐う。」

「先生が仰るに、君子は道徳を思うが、小人は土地を思う。君子は刑に触れる様な事をすまいと思うが、小人は政府からの恩恵を思う。」

これが一般的な解釈である。上の漢文を徂徠が読ませると、

「子曰く、君子徳を懐えば、小人土を懐う。君子刑を懐えば、小人恵を懐う。」
「先生が仰るに、治者が徳を思えば、被治者は土地に安住し、治者が刑罰を思えば、被治者は御情けを思う。」

となる。
君子というのは、いわば「紳士」の事であるが、徂徠は「君子=君主に違いない」ととっているのである。

では、以下に論語を抜粋して見てみよう。

 
 
なんじゃそりゃ第一
 
「子、魯の大師に楽を語りて曰く、楽は其れ知るべきのみ。初めて作すに翕如たり。これを従ちて純如たり。、きょう(表記不能)如たり、繹如たり。以って成る。」
先生(孔子)が音楽の事を魯の楽官長に話された。
「音楽は分かりやすいものです。演奏し始めは
(金属の楽器だから)盛んです。それを鳴らすと(諸楽器が)よく調和し、はっきりし、ずっと続いていって、そうして一節が終ります。」

なんじゃそりゃ! 

「子曰く、道行われず。桴に乗りて海に浮かばん。我に従わん者は、其れ由なるか。子路これを聞きて喜ぶ。子曰く、由や、勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所なからん。」
先生が言われた。「
(政府が自分の思った様な政策をとらないので、自分の求める)道が(国家レヴェルで)行われない。(いっそ)筏に乗って海に浮かぼう。私に附いて来るのは、まあ、由(子路)かな。」
子路がそれを聞いて喜んだので、先生が言われた。
「由よ。勇ましさは私以上だが、さて筏の材料は何処にも得られない
(筏の材料はどうするつもりだね?)。」

わざと戯れて、子路の無分別を嗜めた。
併し、なんじゃそりゃ!子路だって、先生にそう言われて、直ぐに材料の事なんか考えるかい!
まさか先生が嘘つくとは思ってなくて、無意識に、
「先生が筏を調達なされるんだろう・・。」
ぐらいに思ったかもしれんじゃないか!

「子、人と歌いて善ければ、必ずこれを反えさしめて、而して後にこれに和す。」
先生は、人と一緒に歌われて
(相手が)上手ければ、必ずそれを繰り返させ、其の上で合唱された。

なんじゃそりゃ!

「子の燕居、申申如たり。夭夭如たり。」
先生のくつろぎの有様は、のびやかであり、にこやかである。

なんじゃそりゃ!
こういうのは何度と無く出てくる。
何だかの儀式の時に、孔子は恐れおののいて、足取りは静々とすり足で云々・・暫くして和やかな表情になってどうのこうの・・・。
なんで弟子達はこんな事を記録しておいたのか。
それも第一世代の弟子達なら、心情的に先生の普段の様子を残したいという気持ちも分かるが、其の後時代を経て、徐々に「論語」の形に編纂されていく過程でも残されていくというのは、どういう事なのだろう・・?
チェーンメールみたいなもんで、「此の箇所を省くと呪われます。」という噂が、弟子達に受け継がれていったものか。

「食は精を厭わず、膾は細きを厭わず、食の饐してあい(表記不能)せると魚の餒れて肉の敗れたるは食らわず。色の悪しきは食らわず。臭いの悪しきは食らわず。じん(表記不能)を失えるは食らわず。時ならざるは食らわず。割正しからざれば食らわず。其の醤を得ざれば食らわず。」
飯はいくら白くとも宜しく、なますはいくら細かくとも宜しい。飯がすえて味変わりし、魚が腐ったのと肉の腐ったのは食べない。
(当たり前だ!)色が悪くなったのも食べず、臭いの悪くなったのも食べず、(当たり前だっつーの!)煮方の良くないのも食べず、(我儘だな。)季節はずれのも食べず、(贅沢を言うんじゃない!)切り方の正しくないのも食べず、(おいおい!)適当な付け汁がなければ食べない。(なんじゃそりゃ!それが君子のする事かぁ!!)

 
ほんとにそうなんかい第二
 
「子貢が曰く、貧しくして諂うこと無く、冨みて驕ること無きは如何。子曰く、可也。未だ貧しくして道を好み、富みて礼を好む者には若かざるなり。」
子貢が言った。「貧しくしてへつらわず、金持ちであっても威張らないというのは如何でしょうか。」
先生
(孔子)が答えられて、「いいだろう。併し、貧乏であっても道義を楽しみ、金持ちであっても礼儀を好むというのには及ばない。」

ほんとだろうか?言われて負けたくないもんだから、即興で作ったんじゃないだろうか。
もし子貢が、「貧乏であっても道義を楽しみ、金持ちであっても礼儀を好むというのはどうでしょうか」と訊いたら、
「いいだろう。併し、貧しくしてへつらわず、金持ちであっても威張らないというのには及ばない」
なんつったりして。
そういう人は居ます。「うん、それも凄いけど、俺のがもっと凄いよ。」みたいな人。

「子曰く、異端を攻むるは斯れ害のみ。」
先生が言われた。「聖人の道と違った事を研究するのは、ただ害があるだけだ。」

超伝導の研究とか?
ところでこれは本当の話かどうか知らないが、孔子が老子に会った時、老子が孔子に面と向かって、
「それ夫子
(孔子)の驕りと慾を去れ。その態色(これ見よがしの姿態)と淫志(ぎらぎらする野望)は身の爲にならぬと心得べし。」
と言った。
孔子は帰って弟子に言うよう、
「老子は龍だ。誰を、何を以ってしても捉えられない。」
と嘆息したという。
と言う事は、孔子は尠なくとも老子の指摘を正論と感じた、イコール、自分は名誉欲の呪縛から解脱していないとの自覚があったのであり、なるたけ速やかに解脱すべきであるとの認識を持っていたのではないか。
それが分かってて猶、晩年迄「自慢しい」を貫き通した孔子こそ、「聖人の道と違った事を研究する者」だったりして。
(突っ込まないでね。説に無理な仮定があるのは承知だから。)
(「聖人の道と違った事を研究するのはイカン」というのは詰り、「聖人の道=先人の教え」だとすれば、「先人の教え以外の事は勉強しちゃイカン」という意味にも取れる。
これは中国人の伝統的な考え方らしく、孔子の時代から遥か隔たった清朝末期頃にも、この思想が幅を利かせていたという。
中国人は、「学問というのは既に出来上がったもの《完成されたもの》であり、四書五経の中に集約されているものであって、教養人のすべき事は随って古代の教えを暗記する事である」みたいな考え方をしたんだという。
だから、日本で言えば明治維新頃になっても猶、中国では西洋文化を莫迦にして最新の軍事的知識を学ばなかったので、イギリスなどに簡単に負けてしまったんだとか。)


「子張問う。十世知るべきや。子曰く、殷は夏の礼に因る。損益する所知るべきなり。周は殷の礼に因る。損益する所知るべきなり。其れ或いは周を継ぐ者は、百世と雖も知るべきなり。」
子張が、「十代先の王朝の事が分かりましょうか。」とお尋ねした。
先生が言われた。「殷では
(其の前の王朝である)夏の諸制度を受け継いでいて、廃止したり加えたりした跡がよくわかる。周でも殷の諸制度を受け継いでいて、廃止したり加えたりした跡がよくわかる。(だから)もし周の跡を継ぐ者があれば、譬え百代先でも分かるわけだ。」

そうやって推測したんでは、周の跡を継ぐ者(A)は周の諸制度を取捨選択して、更に優れた制度を作るであろうから、周のこれとこの制度を残して・・・と、ある程度どうなるか察しはつこうが、そのまた後の王朝(B)が、其の時点の王朝(A)の、どの制度を取捨選択するか迄の推測が可能なのか。

「子、公冶長を謂わく、妻わすべきなり。縲絏の中に在りと雖も、其の罪に非ざるなりと。其の子を以ってこれに妻わす。」
先生は公冶長の事を、
「妻帯させてよい。獄に繋がれた事はあったが、彼の罪ではなかった。」
と言われ、其のお嬢さんを娶わせられた。」

公冶長は孔子の弟子であったが、何かやらかして(といっても捜査の充分に行われる時代ではないから、誤認逮捕か何かか?)とっ捕まった。
孔子は、「彼の人格からして無実の罪に相違無い。」と、自分の娘を彼に娶わす事で、自分が公冶長を如何に信頼しているかを表明したという美談である。
だが、ちょっと邪推してみよう。
実は孔子の娘は酷い醜女で、嫁の貰い手がなかった・・・と考えてみると、これは恩に着せられた上、無理やり、且つ体よく娘を押しつけられた形であって、公冶長にとっては災難である。
然も、孔子はまた似た様な事をしている。

「子、南容を謂わく、邦に道あれば廃てられず、邦に道なければ刑戮に免れんと。其の兄の子を以ってこれに妻わす。」
先生は南容の事を、
「国家に道のある時は屹度用いられ、道の無い時にも刑死に触れる事はない。」
と言われ、その兄さんのお嬢さんを娶わせられた。

今度は、何もしていない南容に、
「賢い弟子だから良い君主の国にいれば登用されるだろうし、無法な国でも刑罰にかかる事はなかろう。」
という理由だけで、自分の兄さんの子を娶わせている。
ううう、酷い話だ!

「季康子、問う。仲由は政に従わしむべきか。子曰く、由や果。政に従うに於いてか何か有らん。曰く、賜は政に従わしむべきか。曰く、賜や達。政に従うに於いてか何か有らん。曰く、求は政に従わしむべきか。曰く、求は藝あり。政に従うに於いてか何か有らん。」
季康子が尋ねた。
「仲由
(孔子の弟子)に政治を執らせる事ができますかな?」
先生は言われた。
「仲由は果断です。政治を執る位は何でもありません。」
「賜
(同)に政治を執らせる事ができますかな?」
「賜は物事に明るい。政治を執る位は何でもありません。」
「求
(同)に政治を執らせる事ができますかな?」
「求は才能豊かです。政治を執る位は何でもありません。」

この調子でいくと、
「張に政治を執らせる事ができますかな?」
先生は言われた。
「張は慎重です。政治を執る位は何でもありません。」
「王に政治を執らせる事ができますかな?」
「王は器用です。政治を執る位は何でもありません。」
「李に政治を執らせる事ができますかな?」
「李は努力家です。政治を執る位は何でもありません。」
孔子の弟子は、三千人だったか何千人だったか・・。
最後の方になると、
「劉は力持ちです。政治を執る位は何でもありません。」
「梁は三角筋が素晴らしく発達しています。政治を執る位は何でもありません。」
「呉はケツに血管が浮き出ています。政治を執る位は何でもありません。」

 
嫌なじじい第三
 
「孟懿子、孝を問う。子曰く、違うこと無し。樊遅、御たり。子これに告げて曰く、孟孫、孝を我に問う、我対えて曰く、違う事無しと。樊遅が曰く、何の謂いぞや。子の曰く、生けるにはこれに事うるに礼を以ってし、死すればこれを葬るに礼を以ってし、これを祭るに礼を以ってす。」
孟懿子が孝の事を尋ねた。先生
(孔子)は、「間違えない様に。」と(だけ)答えられた。
(其の後)樊遅が御者であったので、先生は彼に話された。
「孟孫さんが私に孝の事を尋ねられたので、私は、『間違えない様に。』と答えたよ。」
樊遅が、「どういう意味ですか。」というと、先生は言われた。
(親が)生きている時は礼の決まりによって仕え、亡くなったら礼の決まりによって葬り、礼の決まりによって御祀りする。」

万事、礼の作法を間違えない様にという意味である。
扨、この話は二重の意味で、嫌な爺い丸出しである。
第一に、孟懿子さんが折角孔子の教えを受けようと、孝について質問したのに、それに答えるに事欠いて、「間違えない様に。」としか教えていない。
これじゃ孟懿子さんも理解できなかったろう。当たり前である。
第二に、御者である樊遅さんに、訊かれてもいないのに、
「孟孫
(懿子)さんに孝に就いて訊かれて、『間違えない様に』とだけ答えたよ。」
なんて言うのは、明らかに、「何の事です?」と訊き返されるのを期待しての事だろう。
其の上で真意を伝えるという。これはもう孟孫さんに意図が伝わろうが伝わらなかろうが、そんな事は問題では無く、唯自分に酔っているという、自己陶酔以外の何物でもない。
今の時代でも五十歳以上の爺さんには、こういう自慢ゲな人は多い。
そういう自己顕示慾の強さというものは、私は世界大戦前後の劣悪な生活環境の時代を生き抜く爲に必要とされたバイタリティの副産物だと思っていたが、或いは単純に老化現象なのかも知れない。

「子曰く、十室の邑、必ず忠信、丘が如き者あらん。丘の学を好むに如かざるなり。」
先生が言われた。
「十軒ほど
(しかない)(小さな)村にも、丘(私)位の忠信の人は居るだろう。丘の学問好きには及ばない(だけだ)。」

随分乱暴な決め付けであるが、そんな事より何より、どうでもいいけど、自分でこういう事を言ってはいけない。

「子曰く、黙してこれを識し、学びて厭わず、人を誨えて倦まず。何か我に有らんや。」
先生が言われた。
「黙っていて覚えておき、学んで飽きる事無く、人を教えて怠らない。
(そんな事は)私にとっては何でも無い。」

また言ってる。

「子、顔淵に謂いて曰く、これを用うれば則ち行い、これを舎つれば則ち蔵る。唯、我と爾と是あるかな。」
先生が顔淵
(孔子の弟子)に言われた。
「用いられたら活動し、捨てられたら引き篭もるという
(時宜を得た)振る舞いは、ただ私とお前だけに出来る事だね。」

だから自分で言うなっての。

「葉公、孔子を子路に問う。子路対えず。子曰く、女いずくんぞ曰わざる。其の人となりや、憤りを発して食を忘れ、楽しみて以って憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざるのみと。」
葉公
(楚の役人)が孔子の事を子路に尋ねたが、子路は答えなかった。
先生は謂われた。
「お前はどうして言わなかったのだ。
(私の)その人となりは、(学問に)発憤しては食事も忘れ、(道を)楽しんでは心配事も忘れ、軈て老いがやってくる事にも気付かずにいるという様に。」

子路は葉公に孔子の人柄を聞かれても、一言でなんつっていいか分からなかったのだろう。
それを咎めて、なんでこういってくれなかったのだ!なんつわれても困るだろうよ!
惣じて、自分が思ってる程、人は自分の事を評価していないものである。
弟子は自分の事をこう思ってるだろうなんと思っても、そうじゃなかったんだから仕方ないじゃないか。
挙句の果てに、何?軈て老いが近付いている事も気付かないでいると言ってくれ?
なんじゃそりゃ!気付かないのに自分で言ってぇる奴ぁねぇやな!

 
 
ああ疲れた・・。

こういう例を挙げてゆくと枚挙に遑が無い。
「論語」全編から抜粋していこうと思ったが、此の辺でやめておこう。
では、最後にとんでもないのを一発。

「子路、子羔をして費の宰たらしむ。子曰く、夫の人の子を賊わん。子路が曰く、民人あり、社稷あり。何ぞ必ずしも書を読みて然る後に学と為さん。子曰く、是の故に夫の佞者を悪む。」
子路が
(季氏の宰であった時に推薦して)、子羔を費の土地の宰(封地の取り締まり)とならせた。先生が、
「あの
(勉学盛りの)若者を駄目にしてしまう(のではないか)。」
と言われると、子路は、
「人民もあり、社稷
(社は土地神。稷は穀物の神で、封地での祭祀の中心)もあります。必ずしも書物を読む事のみを学問だと限る事もないのではないでしょうか。」
と言った。先生は言われた。
「これだからあの口達者な奴は嫌いだ!」

今迄さんざっぱら、人が「こういうのは君子と言えましょうか?」などの質問をしても、「いや、それじゃちょっとイカンね。もうちょっとこう、ああしないと君子とは言えないよ。」等と、素直に頷かずに難癖を付けていた男が、ちょっと反論されるとこれだ!

以上でしゅ。

時に、此の「論語」のコンテンツに無断リンクして下さってる(爆)サイト様発見。有難う存知ます。
http://homepage3.nifty.com/take_tk/honyaku/daigaku2.html
項目14の、「忠信以得之、驕泰以失之」の末尾で当方の文章を引用し、且つURL迄記載して下さってます。