試し斬り-

副題・「即座にネタバレしそうなコンテンツ」

 
 
はじめに

あれ?この壁紙どっかで既に使ったかな?
ま、いいや。

扨、武士として、剣術修行は欠かせないものである。
亦、己の差料がどの程度の切れ味かを知っておくのも嗜みといえようか。
其の為の「試し斬り(巻き藁を斬ったりする「試し斬り」も含めて。)」であるが、
「試し斬り」の概要については、当サイト「武士の魂・刀剣」に於いて、執筆を御願いしている法城寺先生が触れられているので、此処では其の「試し斬り」が、どの程度の頻度で行われていたか。という面に焦点を絞って書いていこう。

小噺がある。
或る武士が新しく刀を入手した。
入手すれば、どうしても切れ味を試したくなるのが人情。
そこで、辻斬りでもしてやろうと夜の町を徘徊していると、或る橋のたもとで菰をかぶって寝ている乞食がある。
「これは究竟。乞食なれば死んだとて、嘆き悲しむ家族とて居るまい。不憫ではあるが・・・。」
と、拝み打ちに斬りつけた。
相手は乞食とても、武士には矢張り僅かの呵責があったか、血糊を拭って鞘に納めるとすぐ、走って其の場を去った。
次の日武士は朋輩に其の話をし、
「いやあ、良き業物を手に入れたものよ。乞食を斬って屋敷に帰り、刃を確認したが瑕ひとつ付いておらん。」
「まことか。なれば身共にも貸せ。」
という事で、朋輩も其の晩、何処かに獲物はいないかと町を徘徊。
橋のたもと迄さしかかると、菰にくるまった乞食が居る。
「はて、昨晩奴が乞食を斬ったは慥かこの辺りの筈だが・・・?昨晩辻斬りが出て尚、此処に寝る奴輩が居るとは・・・。ふっふっふ余程命の要らんものと見ゆる。」
で、そぉ〜っと乞食の側へ近づいて、拝み打ちに斬り付けたら、乞食が菰を跳ね上げて起き上がり、
「誰だ!毎晩俺を叩きに来やがんなぁ!」

落語の「枕」の部分に使われたりする噺であるが、志ん生師はこの後、
「だから刀も色々でありましてぇ・・。」
と続けるが、圓生師は、
「だからそうそう上手く、人なんて斬れるものじゃあない。」
と続ける。
前者は刀の性能を。後者は斬り手の技術を言ったものであるが、刀の性能を試すにも、自分の技を向上させるにも、いずれにしろ試し斬りは不可欠な様である。

当コンテンツでは、試し斬り、それも人体を使った試し斬りについて述べていきたい。

 
難度

時代劇で見る様な、相手を両断しない斬り方というのか、人間の前面なら前面、背面なら背面だけを斬る様な斬り方に、試し斬りの練習が必要かどうか知らないが、ああいう斬り方でも、斬られた方は死ぬんだから、尠なくとも刃が肋骨を切断して内臓に迄達するから、「うぐあ!」・・・ドサッ・・・という事になるんじゃないかと思われる。
となれば矢張り素振りと違って、刃に抵抗を感ずるのであるから、なんぞを斬って練習しときたいものである・・・・と私が勝手に思っているだけなのだが・・・。

しかし、そういう、「格別、相手を両断したくないならしなくともよい斬り方」じゃあ済まされない場合もある。

「切腹」の項目で触れたが、武士には稀に切腹の介錯を命令されるか、依頼される事もあろう。(ん?そんな事「切腹」で触れなかったっけな。)
そんな時に備えるとしたら、これはどうあっても人体での試し斬りはしておきたいものである。
何故なら、上記の圓生師のセリフではないが、種々の資料を読むにつけ、人の首など、そう簡単に落とせるものではない事が分かるからである。

川越藩の「藩邸日記」には、天保七年(1837)の箇所に、
「於川越表斬罪之もの有之、業相勤候もの無之ニ付」
川越の地元で斬罪になった者がいるが、首斬り役を勤められそうな者がいないので・・・と、江戸の公儀御様御用(こうぎおためしごよう。将軍家の刀の切れ味を試す御用。)山田浅右衛門のところに弟子にやっている、自分の藩の長畑親子を「首斬り役」として呼びつけた記述がある。
地元に藩士は多かろうに、わざわざ江戸表に行っている藩士を呼びつけているのだ。

寛政九年(1797)十二月十六日、播州龍野藩に仕える儒者、股野玉川は、その著書「幽蘭堂年譜」の中で、この日の朝、牢屋内で罪人の処刑が執行されたが、斬首役が「甚不手際」で、九刀目で漸く首を落としたと記している。

尤もこういう事が起こるのも、斬首自体の難しさも勿論あろうが、時代が新しくなって、武士ともあろう者が据物斬り等を厭う様になり、碌に練習もしなくなったからであるかも知れない。

「葉隠」(佐賀。成立1716)に、昔は十四、五歳になると、首斬りの稽古をさせられたものだ。殿様だって例外ではない。
「勝茂公御若年の時分、直茂公より、『御切習ひに御仕置候者を御切りなされ候様に。』と御座候に付、今の西の御門内に十人並べ置き候を、続け切りに九人まで御切りなされ候・・・。」
然るに近頃の若侍共は、「人斬りの稽古などしなくともよい。」「縛られた罪人を斬っても手柄にならぬ。」「穢れる。」などと理屈をこねて殊更避けようとしている。嘆かわしい・・。
とある。
著者というか語り手の山本常朝の言う「昔」とは、5,60年前の事であろうか?

尠なくとも成立としてはもっと前の「鸚鵡籠中記」(尾張。1691〜1717)でも1693年12月14日の記述で、
「十四日、晴、空燭烏(空に太陽)。今朝五つ過ぎに予、(据え物斬りの)師の猪飼忠蔵、同忠四郎に随って星野勘左衛門下屋敷にて様(ため)し物を見物す。・・・・・・様し物胴三つ。是は昨日迄、広小路に晒されし惣七、新六、三郎衛門なり。首は獄門にかかる。尤も首は打て来る(予め首は落としてあった。)。浅井孫四郎御馬廻役、一の胴を斬る。これ惣七が胴なり。・・・・・余も股の肉を切落とす。」
日記の著者、朝日文左衛門も、初心者乍ら据え物斬りを経験。立派なものである。
しかし其の後がイマイチだ。
その帰り、朋輩の渡辺平兵衛方に寄り、酒を馳走になっている最中、目の前の皿の刺身を見たら、先刻の据え物斬りの切断面を思い出したのだろう、
「手ふるえて気色悪敷きゆゑに、次の間へ行き休息し・・・・舌強ばり物言ひ定かならず、ほとんど中気に似たり。」
気持ち悪くなってしまった。
この後、彼がぷっつり据え物斬りをやめてしまったのは言う迄もない。

しかし斬首が誰でも彼でも上手くいくとは限らないのは、「葉隠」の古老が嘆く様な惰弱の気風ばかりが原因ではない様である。
殆ど斬首執行を専門職の様にしていた
山田浅右衛門の八代目、吉豊ですら、刑の執行上での失敗談が伝わっている。

1879年、高橋お伝(この名を聞いてぱっと分かる方も居られましょうが、私はこの「お伝事件」については余り知らないので、説明はせずに、すっとぼけて先へ進みます。)の斬首役を仰せつかった浅右衛門吉豊。
切り穴の前に膝を揃えて座ったお伝に向けて、吉豊が関ノ孫六兼元の大業物を振りかぶった時、突如、「あの人に一目逢わせて!」と暴れ出したお伝。
吉豊も面喰って振り降ろせない。
「早くやれ!」と、警察署長に叱咤されて、気を取り直し、今度はちゃんと斬りつけた。
が、その瞬間、お伝はイヤイヤをして首を左右に振っていたから、刀は逸れて、お伝の後頭部を斬った。
「ぎゃあ!助けて〜!」と、暴れまくるお伝。
慌てて二刀目。これも失敗。
目隠しが取れて血だるまと化したお伝の姿には、処刑を見慣れた連中も、遉がに目を背けたという。
やっとの事で、お伝をうつ伏せに押さえ込むと、お伝も観念したか、なんまんだぶ・・・と唱え始めた。
そこを捻り斬りにして、やっと首を落としたという。
もう、「一撃で、皮一枚残して・・・。」なんというどころの話ではなかった。

この事からも、人体の刀による切断が、如何に難しい事かが窺えるではないか。

   
頻度

難しいなら練習しなくちゃいけない。しかし限られた資料からのみであるが、上記の事から、江戸中期以降、尠なくとも「頻繁」には人体による試し斬りは行われていなかったであろう事が朧気乍らわかった(事にする)。

しかし、人体による試し斬り・・・ちょっとニュアンスが違うが、これから据物斬りと言う事にしよう・・・を、やろうとしたところで、これは江戸中期に限らず、どれ程練習台である屍体が入手出来たのか?

先ず思い付くのが、処刑された罪人の屍体である。
公儀御様御用の、歴代山田浅右衛門は、こいつを刑場から貰ってきちゃ、練習に使ったり、本番で将軍家の「御腰のもの」の切れ味を様(ため)したわけであるが、尠なくともそうしたオオヤケな据物斬りに使える屍体は、どうも調べた中では、数ある刑屍体の中でも、「死罪」になった屍体だけであったらしい。

徳川幕府治世下での「死刑」は、「死罪、斬罪、下手人、獄門、磔、火罪、鋸挽き」の七つがある。(因みに、この中で斬首刑は、「死罪、斬罪、下手人、獄門」である。)
例えば、「斬罪」とは武士に対しての斬首刑(切腹or打ち首)であるから、仮にも武士の屍体を据物斬りには使えない。
「下手人」とは、武士以外の者に対する絞首刑である。何故か絞首刑の屍体は、据物斬りには使われなかった。(表面上は。)(←しつこい。)
「獄門」は、武士を含む者に対して行われる、最も重い斬首刑で、これをやられると、屍体は打ち捨てられてしまうらしい。

と、いう様に(わからん所は触れずに進む)、浅右衛門にしたところが、なんでもかんでも刑屍体を貰って来ちゃあ、据物斬りに使える訳ではなかった。(広島藩の「御仕置定式」にも同様の規定あり。)
其の上、女や出家の屍体もいかんというのだから、益々屍体不足を招こう。

況してや江戸詰め諸藩邸の連中には、そう屍体が回ってくるものではなかったであろう事は察しがつく。
公儀で「死罪」になった者の屍体は、浅右衛門関係者に優先的に回されてしまうだろうからである。
単純に刀剣の切れ味を試したいから、浅右衛門に「試してみつくれ。」と刀を託す形での「試し斬り」なら可能だろうが、「自分の腕を試したいから」という目的での「試し斬り」の実現は困難であったろう。

しかし先の「鸚鵡籠中記」の尾張藩士、朝日文左衛門の如く、国元に在れば、御手前仕置(各藩の裁量によって行う仕置)で出た屍体のおこぼれに預かる事が出来る可能性は多少高くもなるんじゃなかろうか。
そればかりではない。尾張藩の「編年大略」、1667年の記述には、
「今年、切支丹宗門之族斬罪に被処、御家中之輩へ、様物に拝領也。」(江戸時代の文書には、「試す」意に「様」の字を用いる事が圧倒的らしい。)
処刑された切支丹の屍体を、試し物に使わせる為に(希望する)藩士に下された・・・。とある。
クリスチャンの体を、その生き死にによらず「様物」に使った例は、江戸、天草、豊後などの文書にも残っている。

ところで前述の「編年大略」の中に、「拝領」という言葉がある。
殿様から貰えば、そりゃ「拝領」なんだろうが、逆に言うと、殿様直々の許しがないと勝手に屍体を持って帰れないというのは、屍体の持ち返り希望者間で喧嘩が起こる程、屍体持ち返り希望者間での競争率が高いからではないか?

「葉隠」に於いても、藩士、中野数馬が、
「頚、胴など乞候て宿元えもたせ参り、庭にすへ、自身ためし・・・」
わざわざ「乞い」そうらわなければ持ちかえれないらしい。

更にしつこい様だが「鸚鵡籠中記」でも、
「ためしもの年寄衆へ被下」「隼人正、胴一ツ拝領」
とあり、刑屍体はまるで貴重品である。

なんとしても「斬り手」に対して、「素材」が不足気味なのは江戸期全般に渡って言えた様である。
しかし江戸時代以前というのは、其処此処に屍体が転がっていたものらしい。
刑場の横を通り過ぎれば、刑場の草っ原に屍体がカラスに突つかれて抛ってあるし(遊歴雑記)、井戸の水で作った茶に2,3日前から油が浮くので、おかしいと思って井戸を掬ってみたら屍体が出てきた(鸚鵡籠中記)とか、汐入りの御堀に流れ着いた屍体は、棒で押し流せとの規定があったり(異扱要覧)する。
そうした屍体を拾ってきて使えばいいじゃないかと思うのだが、実際そう言う事は多々あったらしい。

越前福井藩士、山崎英常の「続片聾記」に、
「田辺太夫という人は据物斬りが好きだったので、彼の草履取りは屍体集めに忙しかった。草履取りが屍体集めに行く先は、大抵河原である。流れ着いた溺死体を菰にくるんで持ち返り、縁の下等に隠し置いて、主人に求められた時、直ぐに差し出せる様にしていた。」
という様な事が書いてある。
やっぱりやる人は居た訳だ。

そういう人は何処にでも居た様で、当局も遉がに見兼ねたか、禁止令を出した藩すらある。
加賀藩で1661年、次の様な禁令が出されている。
「途中に行たふれ果候者、又は川に流死候者有之刻、猥にためし物に仕候儀堅御停止に候間、其御心得被成、御組中へも可被御触候。以上。」
途中に行き倒れて果てた者、川に流れて死んだ者がある時、みだりに試し物にする事は堅く禁止するから、よおく御心得なされて、御組中へもお触れなさって下はい。

刑屍体も駄目。その辺の死骸も駄目。
ときては、益々据物斬りの素材に事欠く。
実際に「据物斬り」をやろうとする人は、時代が下るにつれ、尠なくなっていったのだろうが、それでも素材が間に合わない。
況して、生きながらにして試し斬りの素材にされる、「生き試し」の素材なんぞに恵まれる確率は、各段に低いものとなろう。
なればこそ辻斬りなんぞが横行したものと思われる。

辻斬りといえば、酷い話がある。
水戸黄門、徳川光圀の側近であった井上玄桐の「玄桐筆記」に、光圀が若い頃、浅草のさるお堂で一休みしていた時、同伴者が、
「この縁の下に非人が居るゆえ、引きずり出して試し斬りしてみようではないか。」
と言った。光圀はそれに答えるよう、
「なんでそんな非道が出来ようか!」
と、拒否した。
だがそれに対して同伴者は、まるで光圀を「腰抜け」呼ばわりである。
已む無く、「然程に思ひ給はば、是非無し。」
と、あっさり縁の下へ這入った光圀。(おいおい!)
これはヤバイと思った非人達は、
「我々此体になり候迚も、命ハ惜しく候を、如何に情無き事をし給ふぞ。」
と、光圀に哀願した。
光圀がそれに応えて、
「我等もさ思へども、人有て無理を言はるれバ詮方無し。よく々々前世の業と思へ。」
と、無茶苦茶を言って、その非人の一人を引きずり出し、試し斬りの犠牲者にしてしまったという。
本編とは余り関係ない話だけど。

まとめ

という訳で、まあ、纏めてみると、「難度」の高い人体切断の技術を向上させようとして、練習の「頻度」を高めるにしても、屍体調達の難しさからして、武士とはいえ、そうそう据物斬りの練習なんぞはしなかったものと見て良かろうかと思う。

出羽庄内藩士、小寺信正の「志塵通」には、
「不仁の筋也とて据物を忌む人も有り。夫(それ)もさる事なれども、今治国にしては(太平の世には)、斯様の事を以(って)、刀刃をこヽろミ武備の志を立てるの外ハなし。」
とあるが、そうは言っても庄内藩の屍体調達状況は不明乍ら、江戸期大方の地に於いて藩内の末端の士迄、果たして据物斬りの機会に恵まれたかどうかは恠しいものと言えそうな気がする。

最後に、
「いいや、自分は武士たらんとする身であるから、どうあっても据物斬りの稽古くらいはしなければ気が済まん。」
という方。
或いは、自分の差料の切れ味を知っておきたいという方へ。

弘化四年(1847)当時奈良奉行であった川路左衛門尉聖謨の「寧府紀事」に、
「さし料にて後(のち)若(し)懸念あらば、浅右衛門方へ遣しためすべし。座興などにて決(し)て切(る)べからざること也。良刀をわるくする人、まヽある也。」

折角の大枚をはたいて買った御刀を、悪くしてしまってはいけません。
稽古をするなら稽古用で。
差料を試すなら、自分でやらないで腕の確かな人に頼みましょう。


(追記)
満州事変後、日本軍の正式装備であったサーベル=saber(sabre)を、外国風はイカンと云うので日本刀に戻したそうである。
日本刀が軍刀となったので、刀の修理屋さんが従軍したんだそうだが、其の人の話によれば、ひん曲がったり折れたりして修理に出されるのは、前線で実際に戦闘に用いたから壊れたと云うのではなく、戦闘と関係無く壊れるケースが殆どだったのだと云う。

日本刀と云う物は非常に手入れの難しい物らしいので、中には錆びちゃったとか、柄糸がバラバラになっちゃったとか云うのも有ったらしいが、戦闘と関係無く折れたり曲がったり、刃がめくれちゃったり目釘が折れちゃったりする原因で多かったのは、木や何かに斬り付けて「試し切り」をした場合だったらしい。

江戸時代の「様物」つまり試し切りのマニュアルなんぞを見ると、やけに妙な格好で斬り付けているイラストが有るが、あれは刀に負荷をかけない様な斬り方なのかも知れない。
御医者さんの書いた「試し切り」分析の本でも、朝右衛門などは関節部分に正確に斬り付けているからスンナリ斬れたんだろう・・・と言っている。
結局「据え物斬り」等と云うのは、人体や刀の構造から力学的なもの迄を知悉したプロが細心の注意を払ってやらないと巧くいかないのであって、やっぱり素人がやったんじゃ、ロクな事にならない様だ。

因みに正宗だとか、名刀と云われる部類の刀剣は、戦時中でも大きく左にグニャリと曲がる程度で、折れはしなかったらしいが、一番頑丈で切れ味も良かったのは、車のスプリングで鍛造した刀だったらしい。