大坂高麗橋妻仇討

女性の絡む仇討
 
この「大坂高麗橋の妻仇討」という事件は、近松によって、「鑓の権三重帷子(ごんざかさねのかたびら)」という芝居にされた程であるから、まあ有名といえば有名らしい。

しかしまあ、仇討等というのは、単純に事実だけを何件も並べて見てみると、皆同じ様な話である上、吾人としては当時の状況も分からず、況してや有名人が活躍する話でもなかったりすると、これは飽きが来る。

私はこのHPの趣旨である「江戸期の武士の意気地の様々な貫き方」を多方面から理解していこうとの目的で「仇討」というコンテンツを追加し、こう仇討事件を何件も並べている訳であるが、そういう意図の元に私が書き、皆様に御読み戴くにしろ、如何に何でも飽きるのは飽きる。

にも拘わらず「大坂高麗橋の妻仇討」なんてのを爰に書こうとするのは、この話に託けて、ややこしい「女性絡みの仇討の名称」に就いて説明せんとの意図からである。

といっても、説明なんぞは、一つの名称について数行で終ってしまうであろうけれど。

で、それらを説明し終えて、最後にこの事件の概要を簡単に紹介して終わりにするから安心して貰いたい。
(「簡単に」なんと言って、朝礼に於ける校長先生の話よろしく、エライ長い話になってしまって、読むのに1時間も要したりして。)

扨、こうして説明している間にも、どんどん行数は増えていく。
内容を短くしようという気遣いが全然無駄になっていこうという・・・。

こうしてグダグダグダグダ・・・・・ま、いいや。

 
という訳で、改めまして
今回取り上げるのは妻仇討(めがたうち)(ルビの振り方を憶えて多用する私)と言うが、所謂「女のする仇討」ではない。

享保年間(だと思う)杉山東庵という人物の纏めた、「春女報讐記」という話は、乳飲み子の頃、父を殺されたお春という娘が、成人の後、仇である大西助次郎(変名藤代勘左衛門)を討った史実であるが、これなぞは「女のする仇討」である。

じゃあ、「妻の為にする仇討」かというと、これも違う。
余談だが、こういう「妻の為にする仇討」は、法的に認められるんだろうか。
目上の人間の為の仇討のみ認められたのであって、「妻の為」というのは駄目だった様に記憶するが・・・。あやふやな記憶で恐縮だが。

室鳩巣の「窓の寿佐美」の中にある話で、或る男女の婚礼の時、地域の無頼の者が婚礼の場に酒樽を贈ってきた。
包みを解いてみると、なんと嫌味ったらしい事に、嫁さんの名前が戒名として書かれてある。
嫁さんは、「以前父がこの土地で恨みを受けた事があり、その仕返しだろう。」と言い残し、悄然として自害してしまった。
婿さんは怒りの業火を燃え上がらせること三千丈。
乗り出して行って、首謀者を含め、十三人ばかりを傷つけた。
当然御白州に引っ張り出されたが、無罪になったという。

気持ちは分かるが、当時の武士の道徳心に照らしてみると、こういうのは恐らく余りみっともいい動機ではないという評価があったのではないかと思われる。
登場人物の婿さんが武士だったかどうか知らないが。

それから「騒動討ち(打ち)」というのがある。
又の名を
「女騒動」

武家の「後妻打ち」から来たもので、先妻を離縁して間もなく(十日とか一ヶ月とかの内に)新妻を呼び入れた場合、前の女房は「其の儘にしておけぬ」という事で、親戚、一族一同集めて相談をする。
「ひと悶着起こしてやろう」という事になると、前妻の一家一門の他に達者な女を狩集めて、総勢二、三十人(多いときは五十人とか百人にもなったそうである)で、日取りを定めて、前妻は自分の家来を使いに立てて、
「御覚えがおありの事と思うが、何月何日何刻に騒動に参る」
という事を口上で新妻に申し送る。
新妻の方でも家来を取次にして、
「御尤もの事であるから、心得て御待ち受け致します。」と返事をする。

中には何分の御詫びを申すから、どうか御見合わせを願い度いと、謝るのもあったらしい。
併しそんな弱い事では一生の恥辱になるので、大概は申し出を受けたという。

扨、当日になると、押しかけて行く女達は、めいめいに棒、木剣、竹刀を携え、前妻は必ず駕籠に乗って、同勢は徒歩でくくり袴に襷、髪を振り乱して鉢巻を締めて先方に押し寄せる。

相手でも待ち受けているから、門を八文字に開いてある。
寄せ手は必ず台所から乱入し、鍋釜や戸障子、箪笥長持に至る迄、手当たり次第にぶち壊していって散々暴れた頃、頃合を見計らって新妻の仲人をした者と、先妻の待女郎(婚礼の時に花嫁に附き添う侍女)をした者が出張って来て仲裁の労をとって落着させる。

馬鹿にされた仕打ちが心外だという女らしい矜りを表明する為、男を交えず女ばかりでこういう見栄を切った。
その名残が元禄頃迄は残っていたのだという。

そして結局のところ、「妻仇討」とはこれらのいずれでもなく、何の事は無い、
「妻が間男と出奔し、亭主が後を追いかけて姦夫姦婦を討ち果たす」
という、それだけの事である。

これは江戸時代、かなり情けない事と認識されていた様で、松平信綱が或る浪人を仙台侯に推挙する時、
「この者は取り立てて申す程の取り柄もないが、妻仇討の為に御暇を願い出る様な人物ではない。」
と申し添えたというエピソードが残っている位である。

是程、「褒められた事ではない」という認識が強かった為か、不義密通を見つけた其の場の、所謂現行犯に対しての成敗、という以外は、迯げた密通者を追いかけるのも馬鹿らしいのか、家来や殺し屋に始末を頼んだケースもあったという。

 
事件の顛末
それでは。
読まれる方も御辛かろうけれど、事件の顛末を我慢して御読み戴く事としよう。

ええ、雲州松江、松平出羽守の家中茶道役正井宗昧(そうまい)の妻とよは、夫が江戸勤番の留守中に、夫の茶道の弟子で同藩近習中小姓・池田文次と密通。
近々夫が帰国するとの便りが来ると、二人手に手を取って松江を出奔した。

夫の宗昧が、何時二人の出奔を知ったのかは分からない。
が、国に入るや己の家には行かず、妻の実家・小林幸左衛門方へ、真っ直ぐ向かった。

幸左衛門が言うには、
「吾が娘とは言い条、所詮は姦婦姦夫。討ち取らいでは、お主はもとより、儂とて世間に顔向けが出来ぬ。両人が所在は、倅の弥一郎に突き止めさせてある。なろう事なら儂も偕に参って一太刀浴びせてやり度いが、斯かる老體が同道致しては却って足手纏いになるは必定。弥一郎が案内・助太刀致すゆえ、お主、一刻も早く爰を出立致し、彼奴等を討ち取って呉れよ。早う討たねば亦、何処へなりとも姿を消してしまわぬとも限らぬ程に。」
との事。
宗昧と、義弟・弥一郎は、二人が迯げたという大坂へ向かった。

宗昧等は大坂へ到着すると、直ちに大坂町奉行所に仇討願いを提出する。
これを事前にやっておけば、事後の取調べが簡単に済むからだ。

次いで弥一郎は、予め調べておいたおとよと文次の潜伏先を訪ね、
「宗昧が帰国致し、御両人を討ち取る為大坂へ参っておるゆえ、爰に居っては危ない。今宵の裡にでも京へ御迯げなされい。」
と勧めた。
二人はそれを真に受け、旅篭を出て高麗橋迄差し掛かった時、俟ち受けていた宗昧が踊り出て両人を斬り殺し、本懐を遂げた。

奉行所の検死によると、色男文次の受けた疵は大小十二ヶ所。
かなり激しい斬り合いが展開されたものであろう。

事実は是だけであるが、先に挙げた「鑓の権三重帷子(ごんざかさねのかたびら)」を御存知の方には、物足りぬ顛末なのではあるまいか。

(了)