昔は・・・

さて、マゲである。
そもそもヘアスタイルの統一は、何時頃から始まったのか。
「嬉遊笑覧」に曰く、

「上古は男女ともに髪を垂れたり。または"みずら"とて、頂きにて二つに取り分け、わがね結びて前ざまに押し垂れたることあり。その様、法隆寺太子の御影の前なる童子、これ古の"みずら"なり。」

つまり子供は角子(あげまき)にしていた。
が、これは本編とは関係ない。
問題は次である。

「天武記」十一年夏四月、詔して曰く、今より以後、男女悉くに髪結げよ。十二月三十日より以前に結げ訖われ。」

天武天皇がミコトノリしたのだという。
随分と抽象的な命令だが、髪上げる事ココに始まるという事になろうか。

月代

んでは、サカヤキを剃り始めたのは何時頃からか。
「世事談」に曰く、

月代さかやきを剃ることは鎌倉北条執権の頃に始まる。」

とあり、中で「山海経」という、これは大陸の書物だろうか、が紹介されており、それに依れば、昔東海に「歯黒国」(日本)があり、その風俗は、尊卑皆総髪にして、鉄漿(かね)を付けていた。しかし、みんながみんな歯を黒くしているので、これでは貴賎の区別が付かない。
そこで、男は歯を黒くするなという御触れが出た。すると、
「しかる時は、気鬱して歯の痛となるにより、月代を剃る事となれり。」

・・・・・何だそりゃ?
どうして歯を染めないと、或いは鉄漿をしないと歯が痛くなるのかの理由については最後迄触れられていない。
更にそれの治療法として、頭の真ん中を前方から後ろに向かって剃り、しかも月代というのだから、後頭部の手前辺りで剃刀を止めるという、よく考えたらギャグに近いヘアスタイルになる方法が効くという理由も不明である。が、概して当時は皆まで言わずとも分かった様な事でも、吾人は分からず意味が通じないという事はよくあるものだ。という事にしておこう。
※(鉄漿は水銀であって、虫歯を予防するとの御指摘有り。)
※(更に、↑の「水銀」は間違いであって「鉄奨水(かねみず)と五倍子紛(ふしこ)」が主成分であるという御指摘有り。「○本審美歯科協会」さんのHPに詳しいが、何れにしろ虫歯の予防に効果が有った様である。)

「世事談」では更に、
「また云ふ。鎌倉時代は髪を抜きしなり。信長公の時に剃刀始ると云ふ。按ずるに、髪を抜くといふこと、額のことなるべし。」

これについて徂徠は、
「男の月代・髭剃る事は、信長の髪抜きは痛み煩わしきにより、僧家の剃刀を用ひしが始めなり。(月代の幅が?)広くなるもその頃よりなり。その前は十六才元服の時、小さく半月形に額を抜きあげたり。」
と云っている。

昔は頂きを丸く剃って周りに髪を残し、その円形に剃る故に「月白(つきしろ)」と云ったが、後に「月代」と書いた。
因みに元服の時前髪を落とすが、この前髪を落とした状態を、(私が資料としている書物の書かれた時期がよく分からないが、尠くともその当時は)京坂では「元服天窓」という、なんともロマンティックな表現をするが、江戸では、「野郎あたまと云ふ。」らしい。

話が逸れた。
上の「世事談」で、鎌倉時代、髪を抜くというのはヒタイの事だろうと云っているが、何で剃らずに抜くのかというと、烏帽子を付けた時に「額に髪毛の出るを忌みて」こうするのだという。

 
毛の部分

箕山の「大鑑」は、これは延宝中(1673〜1681)の成立だが、その中に、
「鬢(髪の側面)の厚きは賤しからねど初心めきたり。糸鬢に剃り下げたるは健に見ゆれど凡卑なり。細くして手先の上がりたるなほ卑し。鬢はただ厚からず細からずして直なるよし。これを分けて云はば細き方によるべし。はへさがりは無きかたまさるべし。おくれ髪は一筋ありてもあしし。結ひ様は、立髪、銀杏頭、太元結、これ六法向き陽気者の好む処なり。少年の内は元結細きを用ひ、男になりては初心めきたり。しかれどもふともとゆひの類にはあらず、太からずして細めなるを少し巻く。巻き過ごしは深くきらふ。小切目に位立つる男ならば髪短かかるべし。こうとうなるは曲を出して髪先長かるべし。髱(つと・或いは、たぼ。後頭部の髪)のあるは良しからず。鬢の幅狭きも(広い狭いも)色々変われり。」

これによれば、どうも時代劇の町人髷の様に、サイドとバックが盛り上がった様なヘアスタイルはあまり宜しくないと言っている様に聞こえる。

 
これに対し、「諸艶大鑑」には、
「俄かに厚鬢はきかけの帯がおかしたいなど云へるは、この頃より厚きも始まれり。注に曰く、「能役者は昔より厚鬢なれば、これを学ぶ者多くその風に倣ふ。」。されども今のごとくにはあらず。またその昔、前をば広く剃れども後を多く剃らぬにや、刷毛(はけ・・・マゲの棒状の部分)大方太し。刷毛を上に反らしたるを、「我衣」に蝉折と云ふとあり。」
 
私の読解力のなさの故か、「大鑑」の言い分とは逆に、鬢が厚い方がいいと言っている様に聞こえる。
この形は天和(1681〜1684)頃、即ち「大鑑」成立の延宝の次の元号の頃多く見られ、次の元禄(1688〜1704)頃迄見られたという。
 
時代劇のマゲはどうか
 
或る時代考証家の言によれば、
「地方地方で髷は違う筈であるのに、時代劇に出てくる人物は、何処の藩士だろうが同じ形の髷であるというのはおかしい。」
という。

私が主に資料としている文献の書かれた時期が定かではないのだが、(多分江戸末期)その当時に生きた作者ですら、「当世の髪型といっても、人それぞれだからイチイチ描写し兼ねる。」と言っている。

この文献は三都(江戸・大坂・京都)に限って検証した書物である。
その上、「当世の髪型」と断りを入れての、狭い範囲内での検証であるにもかかわらず、斯かる有様である。江戸期全般の全国の髪型を検証しよう等と思えばどうなるか、推して知るべしである。

例えば、「水戸黄門」を正確な時代考証で演ろうとして、髷に拘ったが最後、先に進めんのではないかと思う。
「水戸黄門」の時代、各地域で、どの様な髷が一般的だったかを、光圀の行く先々でイチイチ再現は出来ないのではなかろうか?
その時期に限って、各藩内でヘアスタイルの記録を残してあったのなら別だが、そんな可能性は低いのではあるまいか。

正に「言うは易し」である。
じゃ、あんたが時代考証して、各時代各地域の髷を再現してみつくれ。
と、言われたら、前述の時代考証家も不可能なのではないかと思われる。

だがそれにしても、江戸期を題材にした時代劇での髪形は、余りに一様に過ぎるかもしれない。

追記※
時代劇の髷というのは主に江戸末期のものであるという。
或る時代考証家が、
「髷に注文を出しても、製作者側から却下されてしまう」
と某書で嘆きを表明していたが、時代考証家も江戸末期の何処の髷だからどうおかしいと言っているのだろう?
例えば、
「江戸末期の江戸の髷ばっかりじゃおかしいから、江戸中期が舞台の米沢藩の髷はこうせよ」
等と注文が出せるものだろうか?

 
ディテイルを見てみる
刷毛
私の資料の成立期は、先にも述べた様に恐らく江戸末期である。
その時期、尠くとも江戸内に限っては、「元結(もとゆい・・・・江戸では、もっといと発音)」つまり、うしろのロングヘアーを束ねた塊の部分を紐で巻く時、町人では三重巻きが普通であったとある。

また或る書物によれば、三重巻きが「粋」であったとされる。
(好色の徒、及び俳優は二巻きであった。)

五巻き以上は武士の巻き方で、十回近くも巻く人が居たという。
そうした、巻く回数の多いコキ元結の巻き方をする人、つまり武士は、マゲを太くした。

しかし町人は太いマゲを、「糞舟のタワシ」と呼んで、カッコ悪ぃモノとし、細いマゲを好んだ様だ。

 
どれがどの時代かはっきりしないが、なんとか銀杏という、月代にベタ〜っと寝かせて刷毛先を散らすやり方もある。多分これは「平銀杏」というものか。

こういう、「刷毛先を散らす」マゲは、落語の中に見えたり、歌舞伎のかつらにあったりするが、(私があんまり時代劇を見ない所為か)時代劇でお目にかかった事がない。

もっと面倒臭がり(?)になると、「嬶ァ束ね(いさみはだたばね)」という、自分のカミさんに結わせた、グッチャグチャのボッサボサで平気な奴もいた。
一九の書いたものに、
「大たぶさは気がきかぬ。銀杏は年寄りくさい。本多(後述)はいき過ぎる。嬶ァたばねがいい。」
というのがある。

こういうのは文化の熟した江戸後期頃のヘアスタイルだったんだろうが、もっと古い絵かなんかを見てみると、刷毛が頭の上に乗っかってる人物を見つけるのが至難となるから試して欲しい。
「小笠原諸礼大全」に至っては、武士の頭にも乗っかっていない。

時代劇の町人は、一様にぶっといマゲをしているが、時代によっちゃ「クソブネのタワシ」なのである。

 
一方、武士の方はというと、主に太いマゲであったと先に書いたが、幕末の写真を見て貰いたい。

非常に細いのである。慶喜然り、島津侯然りである。
時代劇を見慣れている我々が見ると、非常にトホホな頭に見える。
月代も狭い。
「歴史人物2000」とか(?)いう本に、歴史上の主な人物2000人の肖像画や写真が載っているが、これには幕末の武士の写真が多数載っているので、なかなか重宝である。古本屋にでも行って探して見る事を御奨めする。

秋田角館武家屋敷に残る写真も例外ではない。
月代狭く、ボールペンがのっかってる様な頭であった。
尤もこの頃になると、江戸辺りの情報も写真なんかで伝わったりする(?)のだろうから、余り地方色ははっきりと出ないのかもしれないが。

ところがこれより以前の、(特定の時期だと思うが)絵を見てみると、成る程ぶっといまげがのっかっています。

乗っかり方にも色々あって、

安永(1772〜1781)成立(でしょう)の「安永巷説録」に、
「今は、本多うんざり鬢、いてう本多、金魚本多、水髪本多、疫病本多の類夥しく名あり。」
とある。

この「いてう本多」というのが前述の「銀杏」なのだが、「銀杏」というのも「本多髷」の一種に過ぎない。

「当世風俗通」という、これは安永二年の本に、「本多八體」というのが載っており、
「古来の本多」「圓(まる)髷」「五分下げ」「浪速(おうさか)」「令兄(あにさま)」「金魚」「疫病」「團七」の八種類がある。

どれも私には大した違いに思えないのだが、時代劇の武士のヘアスタイルに最も近いと思われるのは、この内「おうさか」である。

追記。一時期太平惰弱の気風に流れて髷が細くなったが、黒船来航後、対外的な危機意識を強めた武士層は、嘗て質実剛健であった頃の武士を倣って、一時的であったかもしれないし限定された地域の中での話であったかもしれないが、髷を太くした様である。「髷が太い方が質実剛健」という価値観も吾人にはピンと来ない話だが、現代にも「茶髪の方が若く見える」という、恐らく後世から見れば訳が分からないであろう価値観を有しているというのも似た様な話だ。事実、60年代か70年代に流行った女の「栗色の毛」(茶髪という言葉は無かった)や、男の長髪(ロン毛という言葉も無かった)は、80年代中盤辺り迄は不気味なものとしてファッション雑誌等で話題にされたのを見た事があるが、それが80年代末(?)になると茶髪・ロン毛、更にはベルボトムやブーツカット等のフレアな裾のパンツ迄もが復活した。)

 
 
長くなってしまった。「鬢」は軽く済まそう。

先に申し上げた様に、「鬢」とはサイドの事である。

何度も恐縮なのだが、また幕末の武士の写真を参照頂きたい。

・・・・なんか変ではないか?

そう、なんかカッコ悪いのは、耳の前方に髪が無いのである。
更に上って、こめかみ辺りまで毛がないのだ。

こめかみ辺りから耳の前方にかけて、人間の毛の生え際というのは、蛇行したラインを持っている。
然るに、幕末のおっさん達の写真では、毛の生え際が垂直に切り立っているのだ。

幕末おやじだけではない。
よく見ると、それ以前の絵等でも、生え際は垂直だ。

当然これは剃っているのだが、この剃る部分を、小鬢(こびん)、京阪では出額(デビタイ)という。

江戸末期時点で、これは普通剃るものであった。古い絵画等を見ても大概剃ってあるので、恐らく江戸期全般に言える事だろう。
稀に武士で剃らない人もあったというが、基本は剃るのである。
況して町人なら剃るだろう。
ところが時代劇では、小鬢を剃ってある人間が出てこない。

かつらで月代を表現できるのだから、小鬢位出来なくもなかろうに、何故そうしないのか??
単なるこれ迄の慣習だろうか??

事の序でに、髱(つと)も済ましてしまおう。

時代劇で町人の頭部を側面から観察すると、やけに後頭部から首にかけて、こんもりと毛が垂れ下がっている。

ここで当初の「大鑑」に戻るが、「大鑑」ではこれは無い方が良いとする。

私の資料、クドイ様だが江戸末期の文献では、町人よりも、寧ろ武士の髱のがおっきい。

福沢諭吉が若い頃にアメリカでだろうか、撮らせた、恰も「髷カタログ」にでも載せる積りではなかろうかといった印象を受ける写真がある。正面からと側面から、わざわざ撮らせたものである。
是は鬢も髱も、いずれもこんもりしているが、どうもわざとこんもりさせた感じではない。
鬢も髱も、あれは思いっ切り引っ張ってセットするものらしいから、逆に言えば引っ張ってやらないとたるむんだろう。たるんでこんもりしている様な感じで、時代劇の武士のピッチリしたヘアスタイルと見比べると、だらしない感じが否めない。
諭吉の他の写真で正面から撮ったものは、サイドがキッチリしているから、偶々だったのかも知れないが、また違う写真で斜め前方から撮ったものは、これまた髱が垂れ下がっている。

中途半端な様だが、これで私の言いたい事は言い終わった。
これらを考慮しながら、時代劇を見て頂きたい。

 
最後になるが、所謂「ちょんまげ」。
多分これは、先に挙げた「嬶ァ束ね」の様な、下層階級のやるマゲの小ぶりなモノを言うので、武士のやるのは「ちょんまげ」ではない。

(追記)
武士と町人の髷の違い。

柴田錬三郎の小説に、幕末、左幕派の武士が官軍から逃げ回る時(だったかな?)、「月代を剃り広げて町人風にして云々・・。」という表現がある。
出典に就いての言及は無いので、本当にそういう記述の有る資料が存在するかどうかは不明だが、そういうモンだったのだろうか。
柴田錬三郎の作品には、故意にかどうか知らないが、例えば物語りの設定してある時代には在る筈の無い建造物が話に出て来たりする。
亦、柴錬本人が、「小説とは嘘っ八を書く物だ。」と言っていたというから、完全に鵜呑みには出来ないかも知れない。
話に信憑性を持たせる為に、如何にも時代考証をしているかの様な、其の実根拠の無い事を実しやかに書く可能性も有る。

次に、野州日光領の「御仕置例類集(判例集)」に載っている事件で、或る男(無宿)が何処かに行こうとして、関所みたいな所で足止めを食った。
余りに待たせるので腹を立てた男は、役人を脅かそうとして役人の身扮りに成り、さんざ役人を威しつけたかどで捕まったという記録が有る。
役人の衣装をどうやって入手したかも疑問だが、其の前に町人と武家の「髷」に大きな違いが有ったなら、こういう悪戯は成立しないのではないかとの疑問も当然生ずるが、そんなに簡単に誤魔化せるものなのだろうか。

(追記)
日常の髷

幕末水戸の中級以下の武家の話だが、多分全国共通ではないかと思われる話。

上級武士の家の女なんかは別として、中級以下の武家の男の髪を結うのは、其の家の主婦の仕事であったらしい。
上でも「嬶ぁ束ね」なんというのが出て来たが、武家でもそうだった様だ。
尤も、落語等で町民が暇潰しに髪結床(かみいどこ)で時間を潰したり、勿論髷を結いに行く様なシーンがあるが、一般的には富裕層と見られる(虚勢を張っている)武家の方がそうした髪結職人にやらせ、町民は嬶ぁに結わせる方が自然だとも思えるが、寧ろそれは「町民階級の下賎な風俗であって、武家は家で結うもの」という意識があったのかも知れない。

扨、家で結うのはいいが、是が亦大変であったらしい。
女の髪を結うのには細かい技巧が要るというが、男の髪を結うのに細かい技巧は要らない代わり、かなりの力仕事だったという。
殊に若くて毛の量の多い男の髪などは、一筋の後れ毛も無い様に鬢付け油で固めてあるのをとかすだけでも大変で、それを木の棒の様に固めて引き伸ばした上で、元結(ひも)で根を強く括り、折り曲げて髷にするのは、初めから終いまで、まるで油で固めた棒と取り組む様なものだったとか。
男の頭の始末と着物の世話は、女より面倒たったという。

歳をとれば禿げる人も居る。そうした人たちは「付け髷」をしなくちゃならないのでそういう苦労も有った。

女も髪を洗うのは盆暮れくらいなもので、男も滅多に洗わないから、余り衛生的とはいえなかったという。

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