髷 |
昔は・・・
さて、マゲである。 「上古は男女ともに髪を垂れたり。または"みずら"とて、頂きにて二つに取り分け、わがね結びて前ざまに押し垂れたることあり。その様、法隆寺太子の御影の前なる童子、これ古の"みずら"なり。」 つまり子供は角子(あげまき)にしていた。 「天武記」十一年夏四月、詔して曰く、今より以後、男女悉くに髪結げよ。十二月三十日より以前に結げ訖われ。」 天武天皇がミコトノリしたのだという。 月代 んでは、サカヤキを剃り始めたのは何時頃からか。 「月代を剃ることは鎌倉北条執権の頃に始まる。」 とあり、中で「山海経」という、これは大陸の書物だろうか、が紹介されており、それに依れば、昔東海に「歯黒国」(日本)があり、その風俗は、尊卑皆総髪にして、鉄漿(かね)を付けていた。しかし、みんながみんな歯を黒くしているので、これでは貴賎の区別が付かない。 ・・・・・何だそりゃ? 「世事談」では更に、 これについて徂徠は、 昔は頂きを丸く剃って周りに髪を残し、その円形に剃る故に「月白(つきしろ)」と云ったが、後に「月代」と書いた。 話が逸れた。 |
毛の部分
箕山の「大鑑」は、これは延宝中(1673〜1681)の成立だが、その中に、 これによれば、どうも時代劇の町人髷の様に、サイドとバックが盛り上がった様なヘアスタイルはあまり宜しくないと言っている様に聞こえる。 |
これに対し、「諸艶大鑑」には、 「俄かに厚鬢はきかけの帯がおかしたいなど云へるは、この頃より厚きも始まれり。注に曰く、「能役者は昔より厚鬢なれば、これを学ぶ者多くその風に倣ふ。」。されども今のごとくにはあらず。またその昔、前をば広く剃れども後を多く剃らぬにや、刷毛(はけ・・・マゲの棒状の部分)大方太し。刷毛を上に反らしたるを、「我衣」に蝉折と云ふとあり。」 |
私の読解力のなさの故か、「大鑑」の言い分とは逆に、鬢が厚い方がいいと言っている様に聞こえる。 この形は天和(1681〜1684)頃、即ち「大鑑」成立の延宝の次の元号の頃多く見られ、次の元禄(1688〜1704)頃迄見られたという。 |
時代劇のマゲはどうか |
或る時代考証家の言によれば、 「地方地方で髷は違う筈であるのに、時代劇に出てくる人物は、何処の藩士だろうが同じ形の髷であるというのはおかしい。」 という。 私が主に資料としている文献の書かれた時期が定かではないのだが、(多分江戸末期)その当時に生きた作者ですら、「当世の髪型といっても、人それぞれだからイチイチ描写し兼ねる。」と言っている。 この文献は三都(江戸・大坂・京都)に限って検証した書物である。 例えば、「水戸黄門」を正確な時代考証で演ろうとして、髷に拘ったが最後、先に進めんのではないかと思う。 正に「言うは易し」である。 だがそれにしても、江戸期を題材にした時代劇での髪形は、余りに一様に過ぎるかもしれない。 |
ディテイルを見てみる |
刷毛 |
私の資料の成立期は、先にも述べた様に恐らく江戸末期である。 その時期、尠くとも江戸内に限っては、「元結(もとゆい・・・・江戸では、もっといと発音)」つまり、うしろのロングヘアーを束ねた塊の部分を紐で巻く時、町人では三重巻きが普通であったとある。 また或る書物によれば、三重巻きが「粋」であったとされる。 五巻き以上は武士の巻き方で、十回近くも巻く人が居たという。 しかし町人は太いマゲを、「糞舟のタワシ」と呼んで、カッコ悪ぃモノとし、細いマゲを好んだ様だ。 |
どれがどの時代かはっきりしないが、なんとか銀杏という、月代にベタ〜っと寝かせて刷毛先を散らすやり方もある。多分これは「平銀杏」というものか。
こういう、「刷毛先を散らす」マゲは、落語の中に見えたり、歌舞伎のかつらにあったりするが、(私があんまり時代劇を見ない所為か)時代劇でお目にかかった事がない。 もっと面倒臭がり(?)になると、「嬶ァ束ね(いさみはだたばね)」という、自分のカミさんに結わせた、グッチャグチャのボッサボサで平気な奴もいた。 こういうのは文化の熟した江戸後期頃のヘアスタイルだったんだろうが、もっと古い絵かなんかを見てみると、刷毛が頭の上に乗っかってる人物を見つけるのが至難となるから試して欲しい。 時代劇の町人は、一様にぶっといマゲをしているが、時代によっちゃ「クソブネのタワシ」なのである。 |
一方、武士の方はというと、主に太いマゲであったと先に書いたが、幕末の写真を見て貰いたい。
非常に細いのである。慶喜然り、島津侯然りである。 秋田角館武家屋敷に残る写真も例外ではない。 ところがこれより以前の、(特定の時期だと思うが)絵を見てみると、成る程ぶっといまげがのっかっています。 乗っかり方にも色々あって、 安永(1772〜1781)成立(でしょう)の「安永巷説録」に、 この「いてう本多」というのが前述の「銀杏」なのだが、「銀杏」というのも「本多髷」の一種に過ぎない。 「当世風俗通」という、これは安永二年の本に、「本多八體」というのが載っており、 どれも私には大した違いに思えないのだが、時代劇の武士のヘアスタイルに最も近いと思われるのは、この内「おうさか」である。 (追記。一時期太平惰弱の気風に流れて髷が細くなったが、黒船来航後、対外的な危機意識を強めた武士層は、嘗て質実剛健であった頃の武士を倣って、一時的であったかもしれないし限定された地域の中での話であったかもしれないが、髷を太くした様である。「髷が太い方が質実剛健」という価値観も吾人にはピンと来ない話だが、現代にも「茶髪の方が若く見える」という、恐らく後世から見れば訳が分からないであろう価値観を有しているというのも似た様な話だ。事実、60年代か70年代に流行った女の「栗色の毛」(茶髪という言葉は無かった)や、男の長髪(ロン毛という言葉も無かった)は、80年代中盤辺り迄は不気味なものとしてファッション雑誌等で話題にされたのを見た事があるが、それが80年代末(?)になると茶髪・ロン毛、更にはベルボトムやブーツカット等のフレアな裾のパンツ迄もが復活した。) |
鬢 |
長くなってしまった。「鬢」は軽く済まそう。
先に申し上げた様に、「鬢」とはサイドの事である。 何度も恐縮なのだが、また幕末の武士の写真を参照頂きたい。 ・・・・なんか変ではないか? そう、なんかカッコ悪いのは、耳の前方に髪が無いのである。 こめかみ辺りから耳の前方にかけて、人間の毛の生え際というのは、蛇行したラインを持っている。 幕末おやじだけではない。 当然これは剃っているのだが、この剃る部分を、小鬢(こびん)、京阪では出額(デビタイ)という。 江戸末期時点で、これは普通剃るものであった。古い絵画等を見ても大概剃ってあるので、恐らく江戸期全般に言える事だろう。 かつらで月代を表現できるのだから、小鬢位出来なくもなかろうに、何故そうしないのか?? 事の序でに、髱(つと)も済ましてしまおう。 時代劇で町人の頭部を側面から観察すると、やけに後頭部から首にかけて、こんもりと毛が垂れ下がっている。 ここで当初の「大鑑」に戻るが、「大鑑」ではこれは無い方が良いとする。 福沢諭吉が若い頃にアメリカでだろうか、撮らせた、恰も「髷カタログ」にでも載せる積りではなかろうかといった印象を受ける写真がある。正面からと側面から、わざわざ撮らせたものである。 中途半端な様だが、これで私の言いたい事は言い終わった。 |
最後になるが、所謂「ちょんまげ」。 多分これは、先に挙げた「嬶ァ束ね」の様な、下層階級のやるマゲの小ぶりなモノを言うので、武士のやるのは「ちょんまげ」ではない。 (追記) 柴田錬三郎の小説に、幕末、左幕派の武士が官軍から逃げ回る時(だったかな?)、「月代を剃り広げて町人風にして云々・・。」という表現がある。 次に、野州日光領の「御仕置例類集(判例集)」に載っている事件で、或る男(無宿)が何処かに行こうとして、関所みたいな所で足止めを食った。 (追記) 上級武士の家の女なんかは別として、中級以下の武家の男の髪を結うのは、其の家の主婦の仕事であったらしい。 扨、家で結うのはいいが、是が亦大変であったらしい。 歳をとれば禿げる人も居る。そうした人たちは「付け髷」をしなくちゃならないのでそういう苦労も有った。 女も髪を洗うのは盆暮れくらいなもので、男も滅多に洗わないから、余り衛生的とはいえなかったという。 了 |