鍵屋の辻の仇討 |
寛永七年(1630)、備前岡山三一万五千石、二代藩主池田忠雄の時代。 その七月二十一日、岡山藩士渡辺数馬の弟、源太夫が殺害された。 事切れる前源太夫は、数馬の家来、岩佐作兵衛に向かって、 「相手は河合又五郎。」と告げたという。 河合又五郎が源太夫殺害に及んだ理由については諸説有る。 @源太夫は岡山城下でも知られた美少年であり、藩主池田忠雄の寵を得ていた。又五郎はそれに嫉妬しての兇行であったとする説。 衆道、所謂モーホーのやきもちである。 A又五郎は源太夫に言い寄った(やらしてくれとでも言ったか?オエッ)が、撥ね付けられたので遺恨に思っての兇行説。 B源太夫が又五郎の差料を欲しがったので、又五郎が源太夫の家迄届けてやると、「斯様ななまくらいらなーい。」と、我侭バカねーちゃん状態で突っ返してよこしたので、流石にキレた又五郎が、件の刀を以って、「斬れ味を見よ!」と源太夫を斬り殺した。 そりゃ頭にもきますわな。 等がある。 急遽、家老荒尾志摩と、近習頭加藤主膳の出役となり、二人が又五郎宅へ駆けつけると、親父の河合半左衛門は知らぬ存ぜぬ。 息子又五郎を庇い、あろう事か江戸へ迯がしてしまう。 又五郎が江戸で迯げ込んだ先は、高崎藩当主安藤右京進重長の又従兄弟(一説に弟)旗本安藤治衛門正珍方。 これがややこしい。 又五郎の父ちゃん半左衛門は、元高崎藩主安藤対馬守重信(重長の親)の家臣だったが、些細な事で同僚を殺めてトンズラし、恰度通りかかった池田忠雄の行列に泣き付いて救われたのである。 当然安藤家から咎人引渡しの要請が来るが、そこはそれ、こちらを頼ってきた駆け込み者を、武士の意気地としてそう簡単には渡せません。池田侯は、 「小藩の安藤に何で膝を屈する必要がある!」 と、安藤の要請を突っぱねた。 ところが今度は、その半左衛門の息子の又五郎が安藤家に迯げ込んだ訳である。 池田候も気マズイったらない。 しょうがないんで、旗本の久世三四郎、安部四郎五郎等を仲介にたて、安藤家に咎人引渡しを申し入れた。が、向こうも素直にウンと言う訳がない。 家同士の遺恨に加えて、大名対旗本の確執も手伝って久世や阿部も敵に回り、話が複雑になった。 池田候はやむなく幕府に直訴した。 幕府もほっとく訳にいかないんで、とりあえず河合半左衛門を備中松山城主、池田長幸に預ける事にした。 二年もそうしている裡、池田忠雄が死ぬ。彼は没に臨んで家の者を集め、 「我家士河合又五郎が事により上裁を請う事歳経て裁断無し。構えて我死後にも此の事幾度も訴えて、我所存を遂しめよ。」(大猷院殿御実記)と遺命した。 忠雄の死後、河合半左衛門の身柄は幕府の命によって、徳島藩の旧主蜂須賀蓬庵に引き渡される。 そして徳島に渡る途中、半左衛門は刺殺された。 幕府は更に旗本安藤、久世、安部の三人に百日間の寺入りを申し付け、河合又五郎を江戸御構いに処した。 だが幕府は一方で、池田家の後継勝五郎に鳥取への国替えを命じた。 そうなって肩身が狭いのは源太夫を殺された、兄の数馬である。 「おめぇが弟を殺されたのに、のほほんとしてやがるから幕府にこういう処置を受けるんだ!」という訳である。 尊属が卑属の為の仇討は出来ない。 だから数馬も幕府の裁断を俟ったのだろうに。 だが、その気になれば、主君忠雄の無念を晴らすという大義名分は立つ。 是非なく数馬は主家を退き、仇の所在を突き止めるべく旅立った。 当初は同じく牢人となった舅、津田豊後と行動を共にしていた数馬だが、その裡何故か舅と離れてしまう。 寛永十年早々、大和郡山にやってきた数馬は、十二万石、松平下総守忠明の大和郡山藩で剣術指南をしている義兄の荒木又右衛門を訪ね、助太刀を請うた。 又右衛門は快くOKし、食禄二百五十石を投げ打って郡山藩を退身。 河合武右衛門、岩本(一説に、森)孫右衛門の両門弟と共に、河合又五郎とその叔父甚左衛門の居場所を探索した。 寛永十一年、奈良で又五郎等を発見した又右衛門一行は、内偵を続けながら一ト月。東海道方面へ出発した又五郎一行を尾行し、先回りして伊賀藤堂藩の城下町の丁字路、鍵屋の辻で待ち受けた。 鎖帷子に黒頭巾。革の達付袴の又右衛門の帯びていたのは、ハバキ元幅一寸余の来伊賀守金道二尺八寸。宇田国家二尺二寸。 渡辺数馬も同じいでたちで備前佑定二尺五寸五分を差していたそうである。 奇襲攻撃とはいえ、又右衛門方四人に対して敵の又五郎方は二十人(諸説有り)。 結果を言ってしまえば、又右衛門方の死者は弟子の河合武右衛門一人。 重傷者渡辺数馬、岩本孫右衛門。 又右衛門は軽傷であった。 又五郎方は死者又五郎、叔父甚左衛門、十文字槍の達人桜井半兵衛、及びその槍持ち四名。 家来が夫々重症一人、軽傷一人。 大方は逃げてしまったというから、偉いモンである。 又五郎を仕留める役目は数馬に課せられたが、数馬が又五郎に留めを刺す迄、何と六時間も要している。 いずれも実戦へのビビリとアドレナリンドッピュンドッピュンで、思う様に動けなかったものか? 藤堂家の記録、「累生記事」に拠れば、数馬の疵は、 「胸に疵二ヶ所、左之足一ヶ所、右大指」 又五郎側は、 「手疵頭に七ヶ所、左之腕被切落、当座に相果、数馬討之」 とある。 一つ外せないエピソードがある。 桜井半兵衛と戦っていた荒木又右衛門の背後から、半兵衛の小者で市蔵という者が、木刀で又右衛門の腰を嫌と言う程殴った。 反射的に木刀を払った又右衛門だったが、其の時又右衛門の刀、来伊賀(一説に和泉)守金道が、鍔元五寸の所からポリンと折れたというのだ。 後に又右衛門は、数馬と共に藤堂家に身柄御預けとなったが、藤堂家の家中に、指南役戸波又兵衛という者がおり、この戸波が又右衛門の刀が折れたという話を聞いてこう言った。 「伊賀守(和泉守)來ノ金道は新刃(あらみ)である。近頃の新刃は刀でなく腰の飾りに過ぎぬ物が多い。仇討という大事の折に、折れ易い新刀を使うとは心掛けが悪い。武士として甚だ恥ずべき事である。そもそも己で刀の鑑定が出来ねば、仇討に臨む前に人に鑑定を依頼するのが道理である。それをしなかったとは不届き千万だが、普通なれば友人の方で捨てておくまいに、友人にも心得のある者がなかったとは、よくよく情けない人物だ。」 又右衛門はその話を聞くや直ちに戸波を訪ね、爾来藤堂家の許しを得て、親しく戸波の門に出入りしたという。 もうひとつ。 「琢磨兵林」という書(?)に、この決闘中、背後から又右衛門の頭を二度天秤棒でぶっ飛ばした、六平という男(河合甚左衛門の仲間という)が、後に語った話が紹介されている。 しかし六平などいう人物は実際にはいなかったらしく、恐らく先に挙げた桜井半兵衛の小者、市蔵の誤りであろうというが、 「主人の甚左衛門殿に某数ヶ度申しけるは、良き脇差を給はり候へ。若しもの時は御用に立て申すべく。某僅かの給金の内にして五十目出し脇差は調へ差し候と云ひしに、しわき旦那にて終に脇差を賜はらず。荒木の頭を棒にて二ツ打ちたり。脇差ならば鬼神の如き荒木にても打ち留めんものを、今に残念也。」 だってさ。 藤堂藩に御預けとなって四年後、鳥取に移封された池田家に帰る数馬にくっ付いて鳥取に行った又右衛門は、鳥取到着後十八日目に急死した。 毒殺説等もあるが、真相は定かではない。享年四一歳という。 山田風太郎氏に拠れば、又右衛門はその後、忍法魔界転生で蘇り、柳生十兵衛に討たれたというが、果たして・・・。 (了) |
法城寺先生(当HPアドバイザー)注 |
ここで、刀剣愛好家から昔の書籍中の細かい誤伝をご紹介。
伊賀守金道は「来」の名跡は名乗ってないのです。弟の和泉守金道(これも晩年になって和泉守を受領したのが最近わかって、二代和泉守金道と混同されていた)が「来」の名を継ぎ「和泉守来金道」と称したのが、混同される元ネタ(あ〜、ほんと紛らわしい)でしょう。実際刀剣に詳しくなければ間違えるのが当たり前、そして、誤伝のまま今に伝わり、刀剣専門書以外の書籍にもでかでかと書いてあるんでいたしかたないですな。諸説あるもの確かにうなずけますよ、ほんとに。 |