新渡戸稲造 |
最近、「新渡戸の日本に関する知識は甚だ恠しいものである」という点他の理由から、新渡戸の武士道観を「外国人的見地から見た様な」「理想的過ぎる」ものであるという様な研究もある様だが、どうも私はそうでもない様な気がする。 ま、兎に角御読み戴きましょう。 |
武士道とは、「高い身分に伴う義務」であるとし、その基本原理は、「義、勇、仁、礼、名誉、忠義」から成るとする。 |
「義」 |
「義」=義理である。 義理は、「世論が果たすべき義務と、世論が期待する漠然とした義務感」から、「非難されることを恐れる臆病」に迄堕落してしまったが、此処で言う「義理」とは、もっと本来的な、「正義の道理」の事である。 「士の重んずる事は節義也。節義は例えていはば、人の体に骨ある如し。骨なければ首も正しく上に在ることを得ず。されば、人は才能ありても学問ありても、節義無ければ世に立つ事を得ず。節義あれば、無骨不調法にても士たるだけの事には事欠かぬ也。」 |
真木和泉守(1813〜1864) |
「勇」 |
「あらゆる種類の危険を冒し、生命を賭して死地に向かう」という、向こう見ずな行為の意ではない、静的勇気。 危険や死を眼前にした時、猶、平静さを保つ「余裕」。 「斯かる時、さこそ命の惜しからめ、予ねてなき身と思ひ知らずば」 |
下の句のみ太田道灌(1432〜1486) |
「一命を軽んずるは士の職分なれば、さして珍しからざる事にて候。血気の勇は、盗賊もこれを成すもの也。侍の侍たる所以は、其場所を引退いて忠節になる事もあり。其場所にて討死して忠節になる事もあり。之を死すべき時に死し、生くべき時に生くといふ也。」 |
水戸光圀(1628〜1700) |
「仁」 |
「封建制度のもとでは、容易に武断政治に陥り易いが、我々が最悪の専制政治から救われているのは仁の御蔭である。とする。 「仁」とは、生かしたり殺したりする力を持った者が、弱者に対して抱く思いやり。 他者の感情を尊重する事から生まれる、謙虚さ、丁寧さであり、それが次の「礼」の根源となる。 |
「礼」 |
日本人の礼が、品性の良さを損ないたくないという心配を元に実践されるとすれば、それは貧弱な徳業である。 「礼」とは、物事の道理を当然の事として尊重した上で、他人に対する思いやりを目に見える形で表現する事である。 これの集大成が礼法であるが、礼法とは、一番無駄を省いた、目的を達成する最短の方法であるとされる。 とすれば、優雅な作法を絶えず実践する事は、余分な力を内に蓄える事に他ならない。 つまり、正しい作法に基づいた日々の絶えざる鍛錬によって、身体のあらゆる部分と機能に申し分のない秩序を授け、且つ、身体を環境に調和させて、精神の統御が体中に行き渡る様にする事を意味する。 |
「誠」 |
真実性と誠意が無くては、礼は見世物の類いに堕ちる。 嘘をつくこと、或いは誤魔化しは、等しく臆病と見倣された。 武士は自分達の高い社会的身分が、商人や農民よりもより高い誠の水準を求められていると考えた。 「武士の一言」というように、武士の言葉は重みを持っているとされていたので、約束等も概ね証文無しで交わされた。 寧ろ証文は、武士の体面に関わるものと考えられていた。 「嘘も方便」というが、単に礼儀を欠かない為に真実を犠牲にする事は、「虚礼」とか、「甘言による欺瞞」と見倣された。 嘘をつくのは罪悪ではなく、寧ろ弱さとして批判された。 |
「名誉」 |
名誉は廉恥心の表れである。 そして廉恥心は、人類の道徳意識の出発点だと稲造は言う。 しかしそれはしばしば、病的な気質を帯びさえした。 名誉の名のもとに、武士道の掟の中でも赦されない様な行為がしでかされた。 取るに足らない理由、というよりも、侮辱を受けたという妄想から、短気で尊大な連中は肚を立てて抜刀に及んだ。 一方、名誉の病的な行き過ぎは、寛容と忍耐を説く事ではっきりと相殺される。 些細な挑発に肚を立てる事は、「短気」として嘲笑された。 |
「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽して人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。」 |
西郷南洲(1827〜1877) |
名誉を勝ち取る為、侍の息子は如何なる貧困をも甘受し、肉体的或いは精神的苦痛の最も厳しい試練に耐えたのであった。 もし名誉や名声が得られるならば、生命自体は安いものだとさえ思われていた。 従って生命より大切とする根拠が示されれば、生命はいつでも心静かに、且つ其の場で捨てられたのである。 |
「忠義」 |
武士道では個人よりも国が先ず存在すると考えている。 つまり個人は国を担う構成要素として生まれてくるのでしかない。 其の為に個人は国の為、或いはその合法的権威の為に生き、亦は死なねばならない。 しかし武士道は、私たちの良心を主君の奴隷として売り渡せとは命じなかった。 己の良心を、主君の気まぐれや酔狂、思い付きなどの生贄にする者に対しては、「佞臣」「寵臣」として軽蔑した。 主君と意見が分かれる時、家臣の取るべき忠節の道は、飽くまで主君の言うところが非である事を説く事であった。 もし其の事が容れられない時は、自己の血を以って自分の言説の誠である事を示し、その主君の叡智と良心に対して最後の訴えをする事はごく普通の事であった。 |
以上、簡単に述べたが、これを以って稲造の説を完全に述べたとは言えない。 |
後々、これ以外の不足箇所を補っていきたい。 |