仇討 |
思想的にはどうか? |
日本の社会では長い間「仇討」が正当化されてきた。 仇討に限らず、そうした武士の生活上の考え方は、大抵が儒教から来る考え方である事が多い。 殊仇討について言えば、中国の「礼記(らいき)」の中の「父の仇、共に天を戴かず」というくだりに、それを正当化させるニュアンスを窺う事が出来る。 ここから日本では、「不倶戴天の敵」という言葉が仇討時に慣用句的に使われていく事となる。 更に、「復讐は子弟の義務」(礼記)。「復讐の義務は血族以外に及ぶ」(周礼)。 と、儒教は「仇討」を忠孝の美徳として肯定しているのである。 |
法的にはどうか? |
戦国末期から幕府や諸藩での仇討に係わる規定が見え始める。 「親子兄弟の敵たり共みだりに打つべからず。ただし、件の敵人成敗終わって後は、御領中へはいくわいの時、討て人走合い、親の敵と云、子の敵と云、村事越度あるべからず。 (1564、「伊達家塵芥集」) 「敵打之事、敵之父を子、兄の敵を弟打可申、弟之敵を兄打は逆也。叔甥之敵打事は可為無用事。」 (1597、「長曽我部元親百箇条」) 「敵打出合切詰候に、其所にて引分、番所へ相渡る者、江戸追放。」 (1691、「御仕置裁記帳」) 「親敵討(の?)事、洛中洛外に依らず、道理至極(に?)於(ける?)者、先例(に?)任(せ?)沙汰に及ばざる儀也。然(ると?)雖(も?)禁裏仙洞之御近所、神社佛閣にては用捨有(る?)可(く?)」 (「板倉伊賀守殿掟書」) 因みに最後の板倉さんを補うと、江戸城曲輪内、寛永寺、増上寺両山内での仇討も禁じられている。 しかし上に紹介したのは、よく考えると「やるんだったらこうしなさい。ああしちゃいかんよ。」という事を言っているに過ぎず、実際幕府が、もっと根本的にやっていいとか悪いとかいった法律上の明確な規定をしていたかというと、そうではなかったらしい。 「敵打願は簿に記し、願に任(せ?)申(す?)可(く?)」 (「徳川禁令考」) という様に、仇討前に届出をすることはよく知られるが、これは単なる慣習法であるという。 慥かに願いを出せば、「仇討免状」というのが貰えるが、これは「仇討登録されてます。」という証明書というか、只の登録の写しだそうである。 実質許可証以外の何物でもない様な気がするが、そうなんだそうである。 |